不思議の奴隷帝国

(2000/01/21)

 塩野七生のエッセイ「イタリア遺聞」(新潮社)を読んだ。往時のヴェネツィア共和国(ベニス)についての話がメインで、もちろん面白かったが、15、16世紀当時のヴェネツィアにとって最大の「仮想敵国」であったトルコ帝国(オスマン・トルコ)についての話にも興味をそそられた。実にユニークで不思議な帝国であったのだ。

 イスラムを国教とするトルコ帝国の専制君主はスルタンで、イェニチェリと呼ばれる直属軍と、三百人もの女性を囲ったハレムを持っていた。

 ハレムの女性はすべてキリスト教徒の生まれで、処女が絶対条件だった。トルコ帝国支配下の領主からスルタンに献上された女性、海賊にさらわれてスルタンに献上された女性、首都コンスタンティノープルの奴隷市場で買われた女性、そして戦争で帝国に征服されたキリスト教国の君主や貴族の娘など。彼女たちは出自とは無関係に、全員が奴隷だった。イスラム教徒であるトルコ人を奴隷にするのは禁じられていたから、ハレムにトルコ女性はいなかった。

「三百人前後は常にいたハレムの女たちの位置は、厳然と分けられていた。一番下層に、まだスルタンの眼にとまらず床を共にしたことのない女たちがくる。彼女たちは、十人ずつに分けられて一室に同居させられ、狭い部屋の床にじかに寝る。前身が王女であろうと、この待遇は変わらなかった。次に、スルタンの眼にとまり、床を共にしたことはあったが、子を与えられなかった女たちが続く。最初の交渉で子を与えられなかった女は、それ以後は二度と床を共にはできない決まりになっていた。十人一組ではなかったにしろ、この段階では、まだ同居組に入る。

 この上にくるのが、男女を問わず、子を与えることのできた女たちである。彼女たちになると、はじめて専用の個室を持つことができた。ただし、この階級も二分されていて、長男を与えた女からはじまって四人までが、女性冠詞のついたスルタンと呼ばれる正妻たちで、彼女たちになってはじめて、幾人かの専用の召使つきのアパルトマンに住むことが許されていた。『正妻』以外の女たちは、妊娠しても、堕胎を強制されることさえある。正妻たちの立場も、皇太子の母以外は安定してなく、寵妃と入れ換えられることも珍しくはなかった。

 ハレムでの最高の地位は、スルタンの生母が占めていた。女は望むだけ持てるスルタンも、母は一人しか持てなかった事実からして、当然の帰結であっただろう。イスラム教の教祖マホメッドも、天国はお前の母の足許にある、と言ったくらいだから、奴隷の身分には変わりなくても、生母となれば別だった。」


 余談だが、「子を与えることのできた女」というのは、「処女を破られたただ一回のセックスで妊娠した女性」ということか。これはしかし、相当に厳しい条件である。荻野式の「危険日」を正確に算出し、その日に何としてもスルタンの「ご指名」をゲットしなければいけない。当時のキリスト教徒出身の処女としては、相当レベルの美貌と野望を併せ持っていたとしても、達成困難な目標であり、偶然に頼る以外無かっただろうと思う。

 で、スルタンの女性関係はハレムの奴隷女性に限られ、貴族や自由民であるトルコ女性の皇后や王妃等は存在しなかった。

「六世紀このかた、トルコのスルタンは、正式の結婚をしてはならないと決められていた。まだトルコ民族が小アジアの流浪の民であった時代、スルタンの妻が敵の捕虜になって以来のことである。その時、捕らわれた妻は裸にされ、敵将の食卓の給仕を強制された。これ以後、トルコ民族にとってこのような屈辱的な事態が二度と起こらないようにと、スルタンの正式の結婚は禁じられたのである。ハレムの奴隷女ならば、何人捕虜にされ裸体でサービスさせられたとて、スルタンの体面には傷がつかないということなのであろう」

 これまた余談だが、三鷹が思うに「屈辱的な事態」が生じたのは捕虜にされたからであり、「正式の妻」だったからではないだろう。昔の日本人ならば「捕虜になる前に自決すべきだった」と考えたかもしれない。「生きて虜囚の辱めを受けず」というヤツだ。捕虜にされたのは戦争に負けた結果だろうから「戦争には絶対勝とう」というキンタマ的な発想もあるだろう。「戦争に負けたり征服されるとそうした事態が発生するから、その前に逃げちゃおう」という賢く臆病な発想もあり得る。でも、トルコ的にはそのようには考えず、「正式の妻」を禁じてしまったのだな。

 とまれ、次代のスルタンとなる皇太子の母(母后)もキリスト教徒出身の奴隷だった。逆に言えば、代々のスルタンはみな、非トルコ人の奴隷を母親に持つ、奴隷の子なのだ。

 そのスルタンの直属軍であるイェニチェリは、これもまた奴隷による軍隊である。帝国は5年に一度、支配下のキリスト教国(ギリシャ、ボスニア、アルバニアなど)から、少年たちを強制的に供出させた。その中から聡明な美少年を40人ほど選抜し、英才教育をほどこして、帝国のエリート官僚として育て上げた。40人以外の少年たちはイェニチェリで育てられた。

 これは別の本で読んだのだが、イェニチェリの少年たちは40人を1組として、苛酷な訓練を受け、野戦料理の大鍋を囲んで食事をとった。この「一つ釜の飯を食った仲間」的連帯と厳格な軍律により、少年たちは精強な軍団へと鍛え上げられた。スプーンの飾りを帽子につけ、大鍋を軍旗がわりにして進軍するイェニチェリは、当時のヨーロッパ最強だった。その大鍋を見ただけで、「こりゃかなわん」と総崩れになった敵軍もあったそうだ。そんな話が生まれるほど、圧倒的に強かった。

「(イスラムに)改宗するとはいえ、もともとはキリスト教徒の生れである。だが、妻帯も飲酒も賭事も禁じられ、親許から完全に引き離された状態で成人するこれらのもとキリスト教徒の奴隷たちは、忠誠を誓う対象としてはスルタンしかないという教育の結果、純血トルコ人よりも、専制君主からすれば信頼の置ける臣下になるのだった。」

 民主主義はもちろん、近代国民国家的常識からは絶対に出てこない発想である。それが実に有効に機能した。他の帝国ではありがちな下剋上とか、有力貴族同士の内乱などが、トルコ帝国ではあまり起こらなかった。トルコ人貴族や自由民より、奴隷のほうが強く、権力を持ち、かつ忠誠心に勝っていたなら、それも当然か。

 非トルコ人奴隷女性を母とする君主が、非トルコ人奴隷女性を妻妾とし、非トルコ人奴隷の最強軍団を率いて征服戦争を行い、アフリカ、アジア、ヨーロッパにまたがる大帝国へと発展したトルコ帝国。それがオスマン・トルコだった。欧米人にとってはもちろん、現在日本人の感覚からも「不思議の帝国」としか言いようがないが、そのオスマン・トルコが20世紀に至るまで600年も続いたという歴史的事実は、キチンと認識しておきたい。

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