天沢退二郎「光車よ、まわれ!」(2)
(2000/07/16)
◎「光車よ、まわれ!」ストーリー構成について
著者の天沢退二郎は、プロの児童文学作家ではなく、詩人で、宮沢賢治研究者である。さらには「仏文科の大学教授」でもあった。だから…というわけではないが、「光車」は、いわゆる児童文学としては、掟破りの作品である。
これは三鷹が学生時代にイギリス児童文学を専攻していた女性から聞いて「なるほど」と思ったのだが、かの国においては「正しい児童文学」の型というのがあるのだそうだ。細かい部分は覚えていないのだが、ファンタジーであっても、現実と異世界との境界がハッキリしていること、最後には現実に帰還すること、こどもが死なないこと、てなルールがあるのだ、ちうことだった。
例えば、学校の休暇にロンドンから田舎のおばあちゃんの家に行ったら、クローゼットが別世界につながっていて、そこでさまざまな冒険を経験した後、現実世界に帰還し、ちょうど休暇も終わってロンドンに帰って行く、てな話だ。ルイスの「ナルニア国物語」なんざ、少なくとも第1作は、まんまその通りだ。次第に別世界が主になっていき、帰ってこれないこどもも出てきて、最後は彼岸こそが真の世界だ、と悟りをひらいてしまうのだが(笑)
なんでそんなルールが必要かは、児童文学の目的が、こどもの健全な成長をうながすところにあるからだ。いわゆるRPG世界を想定してくれれば分かると思うが、ファンタジーの魅力の一つに闘争と暴力がある。スライムから大魔王まで、敵に対しては、容赦無い暴力を振るって打倒するのだ。でも、その魅力を知ったこどもが、現実世界で誰かに同様の暴力を振るったら、大問題である。また、闘争と暴力が「あり」の世界だからこそ、現実世界に通じる「死」は慎重に忌避される。
「光車」においては、鏡面としての水面を境にした、現実(オモガリ国)と異世界(ウラガリ国)という仕切りは一応なされているのだが、確固とした境界ではない。逆に、雨上がりの水たまりのような、ごく日常的な場所が、異世界からの攻撃を受ける可能性のある危険な場所となる。ルミが地霊文字に導かれ、水路だらけの迷路に入り込んでしまうエピソードのように、水面以外にも異世界に繋がっている道はいくらでもある。また、緑衣隊のように、現実に存在する敵もいる。家庭、学校、通学路など、こどもにとっての日常そのものが、不安で危険な空間へと変質させられているのだ。
冒険が終わった後、こどもたちは現実世界に戻るが、龍子は戻らない。冒険そのものが実は、龍子自身を、彼女が本来属していた異世界へ帰還させるためのものだったからだ。龍子を核としていたグループは自然消滅し、一郎は再び孤独で気弱な少年に戻る。(ルミというガールフレンドが出来たのが最大の収穫だっただろうが(笑))
また「光車」は、こども向けの作品でありながら、こどもが殺される。名前が出ているのは龍子グループの双子姉妹だけだが、《水魔神》の釣り針で溺死させられたこどもがいる。終盤近くで、ルミと一郎は、緑衣隊の検問所に、自分たちと同年輩のこどもたちの死体が並べられているのを目撃する。単にこどもが殺されるだけじゃなく、ドラマ的な必然とも無縁に、あっさりと簡単に殺されてしまう世界であるようだ。現実世界と同様に。
以上、児童文学としては本来「禁じ手」とされている手法を積極的に活用したところにこそ、「光車」の魅力はあるのではなかろうか。
で、一度、児童文学という枠をとっぱらって、一般読者を対象としたファンタジー作品として読むと、今度はストーリー的な破綻が露呈する(笑) 詩人としての感性を先行させて書き綴っている故かと思うが、一つ一つのシーンはすばらしく印象的で美しい。が、それらをつないで作品世界を構築するために書いておかねばならないことが、相当量欠落している。
細かいところをあげつらえばキリが無いが、三鷹が一番気になるのが「祖父たち」の整合性だ。龍子の祖父を分身の一つとし、《水魔神》を悪の分身とする中谷晃人は、その肉体が実は龍子や一郎たちが住む都会であると暗示されている。その死体から世界が生じたという盤古のような、一種の世界神であると推察される。中谷老人の体内の出血(脳溢血など)が、現実世界の氾濫とシンクロしている、という設定は面白い。
だとしたら、《水魔神》のわき腹の傷は現実世界(もしくはウラガリ国)の何とシンクロし、本身たる中谷老人のどこに現れているのだろう? 中谷老人自体には、龍子に相当する娘(孫娘)はいないのだろうか? また、なんでそんな神さまが「千代田区1の1」に鎮座ましますのではなく(笑)、世田谷区を指すと思われる「サダヤ区」の借家の大家なんてショボイことをやっているのか? 《水魔神》が「オモテの国家と手を結んだ」と言うのに対抗して、国家権力に何らかの影響力を行使できないのか?
(この項つづく)
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