映画「英雄の条件」と海兵隊思想

(2001/12/02)

 「英雄の条件」(原題 RULES OF ENGAGEMENT)という映画をずいぶん前に観た。その時、気になったことがいくつかあり、その後もずっと気になり続けてきた。この場に書き記すことにより、整理を試みたい。多分にくどくどしい文章になるだろうことを、最初におことわりしておく。

 まず、映画のストーリーを説明する。

 主人公は二人。ホッジス(トミー・リー・ジョーンズ)とチルダーズ(サミュエル・L・ジャクソン)の白人黒人コンビで、ともにアメリカ海兵隊の大佐である。かつてベトナムでともに戦った際に、負傷したホッジスはチルダーズに命を救われた。その後、ホッジスは主にデスクワーカーとしてキャリアを積み、弁護士資格をとる。チルダーズはさまざまな戦場に派遣され、勇名をとどろかす。同じ海兵隊員ながら、光と陰のように対照的な道を進んできたわけだ。

 イエメンのアメリカ大使館がデモ隊に包囲される。孤立した大使一家を救出するために、チルダーズ大佐に出動命令が下る。チルダーズは、デモ隊の投石やスナイパーの銃撃により危機的な状況に陥っていた大使館から、大使一家を避難させる。最後に屋上に取り残された兵を救出しようとしたところで、激しい銃撃を受け、数人の兵士が殺される。チルダーズは、兵にデモ隊を攻撃するよう命令し、命令は実行される。

 デモ隊の多くは女性や少年少女、老人だった。海兵隊の攻撃により80人もの死者と多数の負傷者が出る。全世界のマスコミは「無辜の民衆を虐殺したアメリカ海兵隊」を大々的に報道する。チルダーズは軍法会議にかけられることになる。彼は自分の弁護を旧友であるホッジスに依頼する。

 チルダーズは、デモ隊は隠し持っていた銃器で攻撃してきたと主張するが、彼以外に目撃者はいない。大使館の監視カメラが状況を記録していたのだが、国務省に送られたはずのテープは行方不明になっている。弁護を引き受けたホッジスは単身、イエメンに渡り、自らの足を使った綿密な調査を行うが、チルダーズの証言を支える決定的な証拠も証人も得られない。

 始まった軍法会議においても、チルダーズに不利な状況証拠や証人が次々に提示される。ベトナムでの出来事も蒸し返され、チルダーズが、投降した北ベトナム兵を虐殺したという「事実」さえ暴かれる。だがしかし、ホッジスはチルダーズを献身的に弁護し、最後に「実質無罪」を勝ち取る。

 こんな風に書き出してみると何とも乱暴な話である。「戦友を守るためなら虐殺でも何でも許されるんか?」とツッコミを入れたくなる。だが、その乱暴さにこそ、この映画の本質があるのではないか、と三鷹は考える。

 もちろん、一般の観客を納得させる材料は、映画内でキチンと提示されている。唯一の証拠である監視カメラのビデオテープには、デモ隊の女性・少年少女・老人たちが、手に手に拳銃や自動小銃を掲げて海兵隊員を攻撃しているシーンが鮮明に記録されていた。だが、事件の処理にあたった国務省の官僚は、テープの確認を怠ったまま、関係各国に謝罪してしまった。官僚は後でミスに気づいたが、自らの保身のために、テープを隠密裏に焼却してしまったのだ。

 一般の観客からすれば、チルダーズの正しさは自明の理であり、「実質無罪」は当然の結論だろう。だが、三鷹はそう簡単には騙されない。テープは現存しない。そこに何が映っていたか、観客は分かっているが、ホッジスも陪審員も分からない。状況証拠が圧倒的にチルダーズ不利だったとして、それでもチルダーズ本人の弁明を信じて「実質無罪」の判決が下る。下されるべきだ、というのが、この映画のメッセージである。

 その背景には「海兵隊とはいかにあるべきか?」という、アメリカ人独特の「思想」が存在する、と三鷹は考える。チルダーズもホッジスも陪審員もすべて海兵隊員である。海兵隊員が海兵隊員を裏切ったり見捨てたりすることは、絶対にあってはならない。ゆえにホッジスはチルダーズを信じて彼を弁護し、陪審員はチルダーズとホッジスを信じて「実質無罪」判決を下す。もはやテープなど必要ないのだ。

 また、チルダーズの行為は、仲間の海兵隊員を守るためだったからこそ、海兵隊は彼を絶対的に擁護しなければならない。

 まず、ベトナムの例だが、以下のような状況だった。ホッジスの率いる一隊は沼地で北ベトナム軍の待ち伏せ攻撃を受け全滅寸前。チルダーズの別働隊は敵の指揮官と兵1名を捕虜にする。チルダーズは、ホッジス隊を救うため、攻撃中止命令を出すよう敵指揮官に要求する。指揮官が応じないため、チルダーズは捕虜にした兵を射殺する。目の前で部下を殺され、銃をつきつけられた指揮官は、チルダーズに屈して攻撃中止命令を出す。敵は退却し、ホッジス隊はかろうじて全滅を免れる。

 この、かつての敵指揮官が、軍法会議に証人として登場する。「捕虜虐殺」というチルダーズの戦争犯罪を証言するためだ。ホッジスは「立場が逆なら同じことをしたのではないか?」と反対尋問し、元指揮官(何とも実直そうなベトナム人のおっちゃんだ)は同意する。

 チルダーズの行為はクリーンとはとても言えないが、戦場における、それも緊急避難的状況においては、しかたのないことだったように思える。彼の脅迫により、少なくともホッジスの生命は救われた。また、敵の退却後、敵指揮官をも射殺してしまえば、戦争犯罪告発も含めて後顧の憂いを確実に断てたわけで、それをせずに約束通り指揮官を釈放したチルダーズは、馬鹿正直なまでに「フェア」だったとも言えよう。

 そして、イエメンの例だ。状況は以下のごとし。4階建てくらいの建物に囲まれた広場があり、その建物の一つが大使館である。屋上に海兵隊員がチルダーズも含めて10名ほどいる。広場はデモ隊で埋めつくされ、大使館への投石が行われている。広場をはさんだ向こう側の建物にはゲリラのスナイパーが数名いて、海兵隊員を狙撃している。そのスナイパーの前には赤ん坊を抱いたチャドル姿の女性が右往左往している。

 何らかの指令により、デモ隊はいっせいに隠し持っていた銃器を取り出し、射撃を開始する。海兵隊員が撃ち倒される。射殺された隊員とチルダーズはデモ隊の射撃をハッキリ目撃したが、残りの隊員は床に伏せていて状況を把握していない。銃撃はスナイパーのものだと思っている。チルダーズはデモ隊への反撃を命令するが、副官格の下士官は「非武装の民衆を撃てというのか?」という当然の疑念を抱き、抗命する。チルダーズは命令を繰り返し、反撃は実行される。

 拳銃やらライフルやらバラバラのデモ隊と、海兵隊の斉撃では火力が段違いである。結果が80名の死者と多数の負傷者。広場は血の海となる。デモ隊が持っていた銃器はすべて生き残った仲間が回収し「無辜の民衆虐殺」という残虐絵が完成する。

 銃撃に対して反撃を命じたチルダーズは、指揮官として当然のことをしたまでだ。それが適切なレベルであったかという疑問はあるが。現場の兵士の立場からすれば、目前の戦闘に勝利させてくれる指揮官が優れた指揮官である。過剰防衛を非難するのは後知恵であり、結果論でしかない。

 かくして海兵隊は戦闘に勝利したが、国際政治の舞台における政治的勝利は、デモ隊側が獲得した。海兵隊に発砲させ、80名を殺させたことによって得られた勝利だ。チルダーズ実質無罪の判決により、この政治的勝利はさらに確実なものとなるだろう。「無辜の民衆を虐殺したのみならず、その指揮官を免罪した悪しき帝国アメリカ」という、これまた実に分かりやすい絵図だ。チルダーズは、海兵隊は、そしてアメリカは、見事にハメられたのだ。

 この「戦場での勝利と政治的敗北」という構図は、ベトナム戦争を想起させる。そう、ベトナムにおいても同じことがあったのではないか? 「北爆や枯葉剤散布やベトコン掃討で、無辜の民衆を虐殺したアメリカ軍」と報道された背景には、何人ものチルダーズがいたのではないか? アメリカはハメられたのであり、本当は正しかったのではないか? それを証明する「テープ」も存在したのだが、誰かが焼いてしまったのではないか?………これらの「?」もまた、この映画が観客に暗示する強烈なメッセージである、と三鷹は考える。

 最後に一つ、当然存在するだろう「アラブ側からのクレーム」を提示しておきたい。女子供に銃を持たせて戦わせたり、スナイパーが赤ん坊を抱いた女性を弾除けに使ったりというのは、アメリカ人以上にマチズムを信奉するアラブ人の戦い方としては、不自然極まりない。パレスチナゲリラの女性兵士や少年兵士からの連想かもしれないが、本質がまったく異なる。日本人ならば、例えば白虎隊の例を考えれば分かるだろう。白虎隊は少年だったが「少年までを動員して刀を持たせて戦わせた」わけじゃない。もしもアメリカを舞台の映画だとして、女子供を中心としたアメリカ人一般市民のデモ隊が実は武器を隠し持っていて、警官隊を銃撃したり、夫が自分の妻子を弾除けにしながら狙撃する、てなシーンを描いたら、アメリカ人は怒るだろう。アラブ人はそれ以上に怒るだろうさ。

 以上、どれだけ「整理」になったか、今ひとつ未整理だが(笑)、この映画を観て以来ずっと考え続けていたことを開陳してみた。


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