樋口一葉「たけくらべ」
(2003/03/22)
ちょと事情で樋口一葉を読まねばならぬことになり、岩波文庫の「にごりえ・たけくらべ」を買ってきた。中学時代に授業で拾い読みさせられて以来で、通読するのは初めて。読み始めてみると、実におもしろい。ほとんど一気に読了してしまった。
小説に対して「映画的」というのがほめ言葉かどうか。たぶん違うと思うが、優れた映画の一シーンのように、市井に生きる男女の姿を鮮やかに切り出し、生き生きと描写する。その流れるような文章に驚かされる。おそらくは黙読するのではなく「声に出して読む」ことを前提とした文章でもある。言葉の一つ一つが「音」としての響きを考慮して選択されているかのようだ。
あらゆる人間の悲哀を描こうというのが一葉の意図だったと思う。「たけくらべ」なら、生臭坊主の父親に抑圧された信如、金貸しを稼業とする宿命の正太、一生貧乏人の三五郎と、三五郎を馬鹿にしつつ、三五郎とさほど変わらぬ人生を送るだろう長吉。こどもであっても、手放しで幸福な人間はひとりもいない。まして大人は…だろう。だがしかし、それぞれの不幸を宿命として、愚痴りながらも受け入れ、哀感にまみれて粛々と生きていく。それが市井に生きる人間たちの実像である。彼らの幸福も実は、その哀感のはざま以外には無いのだ、というのが一葉の鋭い洞察である。
美登利もそうした人間たちの一人でしかない。彼女の場合は、境遇が特殊な上、性格が勝気で派手好きだから、悲劇性が際立って見えるというに過ぎない。だからこそ、ヒロインなのだが。ラスト近く「母親一人ほほ笑みては、今にお侠の本性は現れまする これは中休み」と書いてあるところをみれば、一皮剥けた美登利が男という男を食らい尽くしながら、一人前の遊女に成長していく続編の構想もあったのではなかろうか。「にごりえ」はその、ほんの習作という位置付け。浅薄なフェミニズムなど消し飛ばす、悪女小説の大傑作だっただろうと思うと、一葉の夭折が惜しまれる。
それにしても「たけくらべ」の登場人物が少年少女だからといって、これを「少年少女向け」とするのはとんでもない間違い。逆に、少年少女にこんな小説を読ませてはいけない。吉原という特殊な背景があってこそ、マセガキ連中のケンカやら初恋やらが情趣深い。その情趣を味わうには、背景に関する特殊な知識と趣味とが必要で、少年少女には無理。現に中坊だった自分には、さっぱり分からなかった。スレきった大人が、純真なだけとはけして言えない自分自身の少年少女時代を、しみじみと懐かしむ小説である。
巻末解説のフェミ論調、予想通りながらウザい。「吉原遊郭という悲惨な場所」「吉原の闇」と繰り返し、公娼制度を糾弾している。で、「家制度の外部」の遊女が悲惨なら、「内部」の一般女性も悲惨→男社会批判。明治日本の近代化政策批判→左翼流資本主義社会批判、となるのだろう。分かりやすく下らない。こうした論こそ、一葉の文学を貶めるものに他ならない。ちょっと風向きが変われば「やがて性奴隷とされたであろう美登利の悲惨さを徹底して描くことをしなかった一葉の時代的階級的限界」など言い出すぞ。いや、とうに言われているのか。
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