谷崎潤一郎「卍」
(2003/10/22)
本棚を整理していて発掘した、学生時代の「読書ノート」から抜粋。
谷崎潤一郎「卍」を読了。予想以上のヘンタイ小説。3人の男女を思うがままに操る光子の恐ろしさに慄然。谷崎は相互依存的支配:被支配関係であるSM心理を実によく分かっている。
SMというのは相互依存であり、他者無しでは成立しないものだということを知る。いや逆か。依存の対象としての他者を必要不可欠とする種類の人間同士の関係が煮詰まると、時にSM的状況となるということかも。「地下室のオナニスト」のほうがずっと平和だ。
綿貫が子供時代にお多福風邪で睾丸炎になり云々が129ページにあった。結果「種無し」になったというのなら、自分が聞き知っている世間話(フォークロア?)と合致するのだが、この小説では男性機能を喪失した、すなわちインポになったとしている。それがフォークロアの実体だったのかも。
自分は乱歩をはじめとする「探偵小説」を通じて変態心理や猟奇趣味を知ったが、川端や谷崎のような純文学(なのか?)のほうがずっと深い。乱歩がジュヴナイルに見える。いや、ちと違うか。乱歩は変態初心者へ広く間口を開いていて、誰もが変態心理を分かりやすく楽しむことが出来る、いわば変態の大衆向けエンターテイメント化だが、純文学は読者を選ぶ。分かる人間にしか分からないように書かれている。
「卍」だったらば、光子と園子のレズビアンセックスの実際はまったく描写されていない。言葉のやりとりだけのプラトニックな関係だったとも解釈可能だが、そうすると、たとえば園子宅での妊娠騒ぎの結果の二人の和解が、非常に不自然となる。女二人の間には、具体的にどんな形かはともかく、性的カタルシスをもたらす行為が存在し、その行為によって和解したと考えるのが自然であろう。光子と不能者である綿貫との間にも同様の行為があり、それは光子と園子の夫の間でも同様だったのでは、と想像させられる。
光子は一般的な意味での処女のまま死んだ、と仮定すると、この小説の変態性は極致に達する。光子は不能者綿貫から初めてセックスを教えられた。それは通常のセックスでは有り得ない。男性からの一方的奉仕と想像される。そのセックスを光子は園子に教えた。夫とのセックスに不感症だった園子は、光子によりはじめて性的カタルシスに導かれた。となれば、光子と園子の夫のセックスが通常の性行為であったとは考え難いのだが、その行為を通じて、園子の夫はたちまちのうちに光子の性の奴隷とされた。最期には自分の妻である園子を見届け人としての、自分と光子との心中を全うするほどに。
と、ここであらためて「卍」というタイトルの寓意が理解できる。単に交錯した関係を示すのみならず、絡みつく男女、あるいは女同士の肉体を示す記号なのだ。
……うわー、我ながら濃ゆいこと書き散らしてんなー。若さゆえ?
ちなみにこの「地下室のオナニスト」というのは、当時語学クラスの同級生で、現在は新進気鋭の文芸評論家T氏のあだ名(半ば自称)であったということも思い出した。当人は覚えているかなあ?
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