小田中直樹「歴史学ってなんだ?」批判

(2004/04/06)

 小田中直樹「歴史学ってなんだ?」PHP新書 を読了。

 読みやすく分かりやすいのだが、肝心なところが決定的に狂っている本。小田中は「歴史学は科学だ」と決めつけた上で「それは証明できるか?」と自問自答し、相対主義やら認識論やら総動員して「科学の真理性」を疑ってみせる。

 アホくさい。科学の真理性に対する疑義と、歴史学の科学性に対する疑義を一緒くたにしちゃいけない。味噌は匂うし、糞も匂うが、だからといって糞味噌一緒には出来ない。歴史学は、科学とはまるっきり異なる。でなけりゃ「史観」という言葉が説明できない。例えば化学において、論者それぞれの「化学観」によって、酸素の分子量がゼロになったり100になったりしたら、それは科学とは言えんでしょう。

 その上で小田中は「コミュニケーショナルに正しい認識」から「より正しい解釈」に至ることが歴史学の営みであり、それによって歴史学は「わたしたちにとって」の科学たり得る、と説く。いっけんもっともらしいが、それが具体的に何を指すかはすぐには分からない。いったん分かってしまえば実に簡単なのだが(笑)

 日本政府が従軍慰安婦を強制的に徴集したことを100パーセント証明することはできないからといって、だからすべては「物語」だと考えたり、ぼくらの役に立つ「記憶」を選びとろうと主張したり、わたしは元従軍慰安婦の「記憶」を支持すると宣言したりしても、その先には不毛な議論が待っています。

 そうではなく、利用できるかぎりの証拠をかき集め、みんなで突き合わせ、そして、強制徴集はあったという蓋然性が現在のところは高いのであれば、ほかの「通常科学」と同じように、そのことを認め、そのうえで、従軍慰安婦をめぐる議論からどんな「コモン・センス」を得られるかを考えてみることのほうが、はるかに意味がある、とぼくは思います。もちろん、どちらの枠組みを選びとりかは、一人ひとりの判断に委ねられるべきものですが。(p191)

 これが小田中流の「科学」と「コモン・センス」の具体例であるらしい。「なんだサヨか」と分かったひとは、この本自体も含めて、先は読まなくていい。その通りサヨちゃんなんです。分かんない人にポイントを指摘すれば、「日本政府や軍による慰安婦強制連行は無かった」というのが現在日本のサヨ以外のコモン・センスです。「あったという蓋然性が現在のところは高い」というのは明白な嘘。逆に「あった」というのは、韓国の反日勢力と日本国内の反体制勢力が協同して発信する政治的プロパガンダでしかない。「慰安婦論争」をほぼリアルタイムで「傍聴」してきた三鷹が、論者としての責任において断言しとく。

 プロパガンダでしかないものを「蓋然性が高い」と言うのは嘘。その嘘を「科学」の看板で客観的真理であるかのごとく装う。そこから得られるという「コモン・センス」が、常識とはほど遠いものであろうことは想像に難くない。

 いや、こう解釈すべきか。プロパガンダに「蓋然性」を認める特殊なひとたちの間に限った議論ならば、小田中の主張は成立する。そこから導き出されるだろう「コモン・センス」もまたプロパガンダでしか有り得ない、ということに目をつぶりさえすれば。小田中の言う「コミニュケーショナルに正しい認識」のコミュニケーションが成立するのも同じ特殊なひとたちに限ってのことであろう。ならば「より正しい解釈」も特殊人党派内の主流派の主張に過ぎず、「正しい」という言辞は党派を統制するための修飾語に過ぎないだろう。

 もう1箇所叩いておこう。小田中は「従軍慰安婦論争」の吉見義明と、自由主義史観の坂本多加雄を対比させて、吉見の仕事を「模範的な歴史家の営み」と持ち上げる一方、坂本の「歴史とは国民のアイデンティティを支える物語である」との発言を引いて、構造主義的であるとする。ちなみに、小田中にとっては「構造主義的」というのはマイナス評価であるようだ。「科学」の客観的真理性とは相容れないから? よく分からん。

 で、小田中はもうひとり、マルクス主義フェミニズムを標榜する上野千鶴子を登場させる。「実際に苦しんでいる元従軍慰安婦がいるのに、なぜ証拠がないので『確認できない』なんていえるのか、歴史家にそんなことをいう権利はあるのか」と上野の吉見叩き発言を紹介して、歴史学者として誠実であるが故にウヨからもフェミからも叩かれまくる可哀想な吉見を印象付ける。

 この上野も小田中からすると「構造主義的」だそうで、小田中の分析によれば「慰安婦論争」は「日本悪かった派(吉見、上野)」vs「悪くなかった派(坂本)」の側面と、「構造主義的(坂本、上野)」vs「歴史学=科学的(吉見)」の側面を持つ。なかなか面白い分析だが、小田中があえて触れなかった側面を考え合わせるとさらに面白い。韓国アカデミズムvs日本アカデミズムだ。現在韓国のほとんどあらゆる事象において「反日」は反駁不能の絶対価値を持つ。アカデミズムもその例外ではなかったという事実も、「慰安婦論争」を通じて日本に知れ渡ることとなったのだが、小田中はその片鱗にすら触れていない。

 歴史学の、それも日本がらみの歴史的事件の解釈において、韓国側の主張は「反日」に凝り固まった結果「トンデモ」だらけとなっている。上記の3人で言えばフェミの上野に一番近く、上野の数倍ぶっとんでいる。その一片たりとも紹介したら、日本人読者の大多数はあきれ果てるだろう。現に「慰安婦論争」でそうだったように。

 一例だけ示そう。論争盛んな頃、韓国側が「小学生までも従軍慰安婦にされた」と言い出した。ロリオタが狂喜しそうな珍説だが、なんのことはない、女子挺身隊と慰安婦とを混同した結果だった。両者の混同については、日本の学者が何度と無く指摘している。吉見も言っているはずだが、韓国側は頑強に改めない。現在韓国では「小学生慰安婦」が定説化してしまったかもしれない。

 そんな韓国側と比較すれば、吉見も坂本も、上野までも、日本人学者全体の、学問に対する誠実さが際立って見えるだろう。坂本が「歴史は国民のアイデンティティを支える物語」と言うのも、「反日が韓国民のアイデンティティならば、韓国史はそれを支える物語であって良い」ということでもあり、韓国側のトンデモ性を弁護している側面もあるということが分かるはずだ。

 だからこそ、小田中は韓国側について触れることを避けたのだろう。そのようなトンデモ説を強弁する韓国側と「コミュニケーショナルに正しい認識」に至っているサヨの主張が、科学どころか、まっとうな歴史学的方法論に即しているとも言い難いから。そのサヨに立つ小田中の主張が根本から崩れ去ってしまうからだろう。


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