川端康成とノーベル文学賞
(98/06/18)
毎年10月終わりから11月にかけ「読書週間」というイベントが行われる。この期間中、読売新聞は、日本人の読書傾向や本に対する意識を調べる世論調査を行っている。1993年度以降「あなたの好きな作家や著者がいれば、国内・国外を問わず、3人まであげて下さい」という項目が加わった。この「好きな作家アンケート」94年度に、我らが川端康成が突然登場する。それも堂々の第5位。大江健三郎と同票入選だ。(ちなみに1位は赤川”三毛猫”次郎)
大江が入った理由は明白。この年にノーベル文学賞をゲットしたためだ。賞決定後、全国各地の書店で、それまで大して売れなかった大江の本が品切れになるほど売れて売れて売れまくり、ノーベル賞効果と称された。その大江と同順位を分けた川端も、日本人受けする作家であることは確実で、「伊豆の踊子」などアイドルを使った映画化も何年かおきに繰り返されているものの、赤川次郎がトップ入選するような「人気アンケート」の、10位以内にランクされるような派手さとは無縁だろう。
川端人気が大江のノーベル賞受賞をキッカケに、マラリアのように再発した、と三鷹は解釈する。これもまたノーベル賞効果と言えよう。もしかして、大江の作品を読み始めはしたものの、あまりの悪文に途中で投げ出してしまった読者が、川端の作品を再評価したのかもしれない(笑)
翌95年度のアンケートでは、川端&大江はともに第8位に後退。ノーベル賞コンビが2年続けて同票数というのは奇縁か。96年度以降は、両者とも20位以内には入っていない。
もしかして来年あたり、曽野綾子がノーベル文学賞をゲットしたら、今度はトリオ人気となるのかもしれない。書店フェアをやったら、ちょと凄い取り合わせだ。曽野の場合は、平和賞の方がずっと近いかもしれないが(笑)
なるほど左様に川端康成とノーベル文学賞は現在に至るまで密接不可分なのだが、川端のノーベル賞受賞にケチをつけた人間が何人かいる。その一人が本多”週刊金曜日”勝一だ。
もっとも、ノーベル文学賞に異を唱えた有名人のリストを作れば、知名度において、本多の順位は下から数えた方がずっと早い。受賞を拒否したボリス”ドクトル・ジバゴ”パステルナーク(58年)とジャン=ポール”嘔吐”サルトル(64年)。パステルナークの場合は、彼を受賞拒否に追い込んだ旧ソ連当局こそが「反ノーベル賞」の栄誉を受けるべきだろう。旧ソ連はまた、62年にノーベル文学賞を受賞したスタインベックをも「ベトナム戦争共犯者」と非難した。視線を右方面にシフトすれば、ヒトラーは、29年受賞のトーマス・マンの市民権を剥奪し、ドイツ人がノーベル賞を受賞することを禁止した。
社会主義(共産主義)であれ国家社会主義(ナチズム)であれ「大衆」を旗印とする政治勢力は、しばしばノーベル賞を敵視した。大富豪が創設し、王国アカデミズムが決定する賞は、富やステイタス(単に物質的なものではなく、むしろ知的な)とは無縁な大衆の、ドス黒い嫉妬心を喚起せしめる素材として、ぴったりだったのだろう。
川端が受賞したノーベル賞を、本多は「侵略賞・人種差別賞」とこきおろす。なぜならば、ある「偉大な詩」があったとして、ノーベル文学賞を受賞するためには、それが文字として記録され、「世界侵略をすすめた上で支配的な主流としてのイギリス語(三鷹注)やフランス語に訳されている必要がある」からだ、と。
(本多勝一「『ノーベル賞』という名の侵略賞・人種差別賞」1973 「殺される側の論理」朝日文庫 に収録。以下の引用もすべてこの記事から)
この本多の主張は、歴史や伝統に無知で、それらの価値の重さを知らずに安直に否定する人間が、どこまで馬鹿で傲慢になれるのか、その標本として貴重とも言えるかもしれない。
本多の主張をフエンすれば、世界中のあらゆる言語に通暁し、あらゆる言語的表現(文字に記録されているか否かは問わず)を完全に網羅するか、「網羅せん」と空言する文学賞以外は、すべてが「人種差別賞」として非難可能となるだろう。そのような非難を免れる文学賞など存在しない。存在しえない、と言っても過言ではないだろう。
そのことに気づいたからかどうかは知らないが、本多は「もともと『賞』というのは基本的に愚劣なのだろう」とも述べている。その本多自身、朝日新聞の記者として、ジャーナリストとしての多年の活動に対し、朝日新聞社賞、JCJ賞、ボーン国際記者賞、毎日出版文化賞、大同生命地域研究賞と「賞」を数多く受けている。本多はこれらの賞まで「愚劣」とは言わないだろう。ならばそれを頂戴した自分は、賞それ自体よりもさらに一段「愚劣」であるということになり、愚劣に愚劣を重ねた人間が他を愚劣呼ばわりすること以上に、滑稽なことは無いからだ。となると、本多の発言は以下のように書き直すべきだ。「もともと『賞』というのは基本的に愚劣だが、自分に与えられた賞は例外である」と。アホらしい。
川端のノーベル文学賞受賞に対して、本多が反感を抱いた理由を知るためだけなら、そこまでの分析は不要である。本多自身が以下のように明言しているからだ。「アメリカ合州国のベトナム侵略を世界で最も熱烈に支持・協力してきた自民党を特別熱心に応援してきた」川端の政治姿勢ゆえに、本多は川端のノーベル文学賞受賞を非難する、と。なるほど、実に分かりやすい(笑) 要するに「敵の味方は敵」という政治的主張に過ぎず、川端文学の価値とはまったく無関係なのだ。
その本多がよってたつ政治的立場についての論評は、今この場ではしないが、一つだけ指摘しておこう。本多は幼い子供が父親に甘えるように、ノーベル賞に甘えている。ノーベル賞批判はその甘えの裏返しなのだ。本多はこの文章の冒頭で以下のように述べている。
「かなり最近、といってもほぼ十数年前まで、私もまた多くの日本人と同様、ノーベル賞というものを無条件に『すばらしい、世界最高の賞』と思っていた」
そもそも「無条件にすばらしい世界最高のもの」が現実世界に存在すると考えること自体、「子供の思考」である。「うちのパパは世界一」と考えていた子供も、成長するに従って、いやおうなしに「パパの欠点」を思い知らされる。理想と現実のギャップをギャップとして把握できないまま、「どうしてパパは、『無条件にすばらしい世界最高のパパ』じゃないんだよお」と涙を浮かべて非難し、「パパは最低最悪だ」てな極端な主張に突っ走ってしまう。
甘えだから、どんなに非現実的な要求をしてもかまわない。「世界中のあらゆる言語に通暁し、あらゆる言語的表現(文字に記録されているか否かは問わず)を完全に網羅せよ。できなきゃ人種差別だ侵略加担だ」てな言語道断の主張であっても。「ンなもんが出来ると思うなら、試しに自分でやってみな」てな冷酷な反論は、幼い子供と父親のような、甘え甘えられるという非対称な関係においては有り得ないから。
本多の甘えの対象は、もちろん、ノーベル賞に限ってはいない。本多が散々に非難した「アメリカ合州国」(勝手に言葉を作るな)にもベッタベタに甘えまくってる。そのうち機会があれば、そこらへんについても当食堂で料理して差し上げよう。
と、また川端から話がズレてしまったぞ。誰の責任だ?(笑)
注:イギリス語・・・「英語」の本多流言い換え。「英」というプラスの意味をまとった漢字を「English」の訳語とするのは植民地的である、てな理屈だったと思う。それはそれで一個の「見識」もしくは「小賢しさの発露」だろうが、ならばなんで本多は「中国」という言葉を無批判無神経に使用しているのだろうか?
三鷹が今さら言うまでも無く、「中国」というのは「世界の中心の先進国」という意味のプラスの意味をまとった言葉であり、それに対応するのは「北狄・東夷・南蛮・西戎」てな、「(中国の)周辺の後進国」というマイナスの意味をまとわされた言葉だ。ちなみに日本は「東夷」に相当する。そう考えれば「中国」が「英語」以上に植民地的な言葉であるということが分かるだろう。「英語」を神経質に言い換える一方で「中国」を無神経に使う本多に対しては、「中国」を宗主国とする植民地的偏見の持ち主である、との非難も可能だろう。
とまれ、日本の現状としては、「英語」も「中国」も、本多や三鷹の言うような特別な意味付けとは無縁に、ごく普通に流通している。ならば普通に「英語」と言い、「中国」と言えば良いだけのこと。自分勝手に言葉を作るんじゃない。(「アメリカ合州国」についても同様)
本棚へ。
トップへ。