息子の嫁に心乱され・・・「山の音」
(98/06/21)
川端康成は「孤児」である。伝記的には、満1歳で父を亡くし、翌年母を亡くして祖父母の家に引き取られる。7歳で祖母を亡くし、10歳の時に他の家に引き取られていた姉が死ぬ。この姉が川端の唯一のきょうだいだった。そして、17歳で祖父を亡くす。祖父が死ぬ間際の看病の記録が、川端自身が処女作とする「十六歳の日記」である。
「伊豆の踊子」の一節に「二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった」とある。
孤児とはいえ、資産家の親戚のおかげで、経済的にはまったく困窮していなかった。私設孤児院を脱走して虎の穴に入った伊達直人などとは全然違う。逆に、世間一般の非孤児(?)よりもずっと恵まれた生活だった。「伊豆の踊子」の題材となった一高時代の伊豆旅行にしても、温泉旅館を泊まり歩き、茶店の老婆にも法外なチップを払うなど、学生の分際で相当の大名旅行である。
しかし川端は自分自身を「孤児」と規定していた。この「孤児」を「世間一般の家族関係を体験的に理解できなかった人間」と解釈すると、川端作品のいくつかに共通して感じられる、家族描写の奇妙さが説明可能かもしれない。それは、たとえば「父−息子」関係の歪みという形で顕現する。
それが一番分かりやすい形で露呈しているのが、「戦後文学の最高峰に位する名作」と称賛される「山の音」である。作品が書かれたのは昭和24年から29年。その時代を「現在」とした物語である。主人公の尾形信吾は62歳。鎌倉の自宅から都内の会社に通勤している。同居している家族は一つ年上の妻・保子。息子・修一。息子の妻・菊子の3人。後に、子連れで出戻ってきた娘・房子と房子が生んだ孫・里子と国子が家族に加わる。
信吾は、少年時代に年上の美女に憧れていた。彼女は他の男性と結婚し、子供を産んだ後若くして死んだ。彼女の妹は姉のように美しくはなかった。妹は美男子である義兄の後添えをもくろみ、姉の婚家へ出入りしていたが、相手にされなかった。その妹が保子だった。信吾はそうした事情を承知した上で保子と結婚し、房子と修一の二子をもうけた。
息子の修一は美男だったが、娘の房子は醜かった。修一が結婚した菊子はお嬢さん育ちの美少女だったが、房子の結婚相手・相原は、社会人失格のアウトローである。
修一の妻・菊子は、額にかすかな傷あとがある。菊子は八人きょうだいの末っ子で、彼女を妊娠した時、母親は中絶を試みたが失敗した。出産も難産で、額に鈎をかけられて引き出された名残が、額の傷だ。
修一は、結婚してまだ2年足らずなのに、絹子という戦争未亡人と浮気している。
信吾はこうした家族の中で、唯一、菊子に愛情を感じている。
この複雑な人間関係も、「信吾の妄想」を主軸にすると、実に簡単に整理できる。信吾が愛する女性は、少年時代に憧れた死せる美女と、そのダブルイメージの菊子だ。「中絶失敗の結果生まれてしまった」という菊子の出生の事情は、象徴的に、菊子の半身が「死の世界」に属しているということを意味する。修一と菊子が美男美女のカップルというのも、死せる美女と同一だ。修一の嫁である菊子は、「子供」でもある。結婚後しばらくして、菊子の身長が伸びた、てなエピソードが挿入される。すなわち、死せる美女の復活たる菊子は、未だ成長途上なのだ。その菊子を支えるべき修一は、他所の女にウツツを抜かしている。だったらば、菊子を女として完成させ、死せる美女を復活させるために、自分がヒトハダ脱がざるを得まい、というところで「信吾の妄想」は完結する。
「それでいいのか?」と三鷹は水を注したい気分にかられる。「息子の嫁に死せる初恋の女のイメージを投影して心乱される父親」は、分からないでもない。「死せる初恋の女」云々はともかく、息子の嫁がそこまで魅力的なら、ボケたふりして嫁のケツの一つもなでてやりたい、と思うのが、世間一般の62歳だろうと思うから。
しかし、その前にやらなきゃいけないことがある。息子・修一を一発ぶん殴って、愛人と手を切って嫁を安心させてやれ、と説教すること。でなけりゃ息子を勘当して別居させ、交際を断つこと。どちらも信吾にはできない。
そんなことをしているうちに、今まで子供ができなかった菊子が妊娠する。が、中絶してしまう。理由は夫の修一への不信感だ。その費用を修一は愛人の絹子から借りていた、ということが後に判明する。
菊子の中絶を信吾は修一から教えられる。そのシーンの会話を以下、シナリオの形に編集して引用しよう。
東海道線の通勤電車の中で、隣り合わせの座席に座って話す信吾と修一。
信吾「お前が、そう(中絶を)させたのか?」
修一「自分でそうすると言って、きかないんですよ」
信吾「菊子が自分で? 嘘をつけ」
修一「それはほんとうです」
信吾「どうしてだ。どうして、菊子にそういう考えをおこさせるんだ」
修一「・・・・・・・・・」
信吾「お前が悪いんじゃないか」
修一「それはそうでしょうが、今はどうしてもいやだと、片意地を張るもんですから」
信吾「お前がとめれば、とめられることだ」
修一「今はだめでしょう」
信吾「その、今というのはなんだ」
修一「お父さんもごぞんじのように、つまり、僕が今のままでは、子供を産まないというんです」
信吾「つまり、お前に女があるうちは?」
修一「まあそうです」
信吾「まあそうですとは、なんだ。それは菊子の、半ば自殺だぞ。そうは思わんのか。お前にたいする抗議というよりも、半ば自殺だぞ」
信吾の剣幕にひるむ修一。
信吾「お前は菊子の魂を殺した。取りかえしがつかないぞ」
修一「菊子の魂は、なかなかあれで、強情ですよ」
信吾「女じゃないか。お前の女房じゃないか。お前の出方ひとつで、やさしいいたわりで、菊子はよろこんで産むにちがいないんだ。女の問題は別にしてね」
修一「ところが、別でないんですね」
信吾「保子などが、孫を待ってることは、菊子もよく知っているはずだ。いくらか子供のおそいのを、菊子は肩身狭く思ってるくらいじゃないのか。ほしがっているものを、産めなくさせるのは、お前が菊子の魂を殺すようにするからだ」
修一「それは少しちがうな。菊子には菊子の潔癖があるらしいですね」
信吾「潔癖?」
修一「子供が出来るのもくやしいというような・・・・・・」
信吾「ふうむ?」
これが父と息子の会話だろうか? こんな会話を交わす父と息子が現実に存在するだろうか? 三鷹には、はなはだ疑問である。仮に修一が自分だとしたら、自分の妻について、愛人について、中絶した子について、このような冷静な分析を父親に示し、ディスカッションできるとは思えない。信吾が自分なら、上記ダイアログの10行目ぐらいで信吾の「だしゃあ!」の顔面打撃一発、修一は血煙を巻き散らしてふっ飛んでいるから、これもダメ(笑)
学生時代以来の同輩の友人同士の青臭い会話だったら、まあ、理解できるかもしれない。菊子に内心惚れている信吾が、菊子と結婚したのに浮気している、友人の修一に意見している、てな風に。ならばこそ「魂を殺す」などという形而上学じみた言い方も登場するのだろう、と。その背景に存在するのは、信吾の修一に対する、恋愛弱者のコンプレックスだ。
なぜ信吾はそんなコンプレックスを実の息子に抱くのか? 息子は死せる美女が結婚した男と同じく美男なのに、自分はそうではないから・・・としか説明できないが、父と息子の間にそのようなコンプレックスが存在し得るのだろうか? 存在するとしたら、相当に異常な父子関係なのではないだろうか。
「菊子が流産した子供、この失われた孫こそは、保子の姉の生れがわりではなかったろうか、そしてこの世には生を与えられぬ美女ではなかったろうか、というような妄想にとらわれて、なお自分に驚いた」
信吾の異常なコンプレックスを知った読者は、もう驚きはしないだろう。信吾にとってのリアルは、死せる美女であり、現世でのことがらのうち、信吾が真に魅かれるのは、死せる美女の投影でしかないのだから。
その後、信吾は夢の中で処女を犯し、目覚めた後、その女は菊子の化身だったのではないか、と思う。
「もし、信吾の欲望がほしいままにゆるされ、信吾の人生が思いのままに作りなおせるものなら、信吾は処女の菊子を、つまり修一と結婚する前の菊子を、愛したいのではあるまいか」
そんな歪みに歪んだ情念を息子の嫁に投影しつつ、ウジウジと生き続ける老後も、それはそれで楽しいのかもしれないな、と三鷹は思う。それに賛同する人間は、圧倒的少数派かもしれない。そうあって欲しい。
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