三鷹のパソコン「蔵書目録」

(98/12/09)

 以前どこかで読んだが、パソコンビギナーがデータベースソフトを「活用」しようとして取り組むのが、まず「知人の住所録」で、次が「所持している本やCDのリスト」なんだそうだ。そして彼らの大半は挫折する、と。考えてみたら当たり前の話だ。個人がキーボードを叩いて作ったデータベースを、当の個人が使うのだから、名刺入れや去年の年賀状をひっくり返したり、本棚を眺めれば済むことだ。そんな手間さえかけるまでもなく、単に「思い出す」だけで済むかもしれない。パソコンなぞ必要ない。

 必要だとしたら、一般人よかちょと多くの知人(あるいは本、CD)を持ち、一般人よかちょと記憶能力に不自由している人間だ。実は三鷹がそのサンプル(笑) もう10年以上昔、8ビットパソコン時代に作った「蔵書目録」を、今も便利に使い続けている。

 作成当時のハードはNECのPC8801mk2だった。21インチの家庭用TVをディスプレイにしていた。当時のパソコンはそんな芸当も出来たのだ。誰が決めたか知らないが「2000ライン」という規格だった。もっとも、ゲームソフトはともかく、ワープロやデータベースなど、細かい文字表示が必要なビジネスソフトの多くは、パソコン専用ディスプレイを必要としていた。こっちは倍の4000ライン。2000ラインのディスプレイで使える数少ない例外が、神田須田町の高電社というソフトハウスが作っていた「パラムK3」というカード式データベースだった。

 パラムとは韓国語で「風」という意味だ。高電社は韓国語ワープロソフトも作っていたから、おそらく在日韓国(あるいは朝鮮)系企業だったのだろう。韓国系企業が日本人向けソフトウェアに堂々と韓国語の名前をつける。そういうやりかたを三鷹は嫌いじゃない。「レクサス、日本名・ウィンダム」なんてのよか、ずっとかっこいいぞ(笑)

 最初に「蔵書目録」を作った時に入力したデータは、せいぜい300冊ぐらいだっただろうか。確かSF小説のリストだった。タッチタイピングが出来るようになる以前、かなキーを五月雨打ちしていた時代で、一週間以上かかった。でも、出来上がった「目録」に検索をかければ、5インチのフロッピーディスクをしばらくギチギチと鳴らした後、お目当ての本のデータが画面に出た。「おお、データベース」てな感じでうれしかった。わざわざパソコン立ち上げて探すほどのモンじゃないのは分かっているが、キカイを自分の手で操作して「活用してる」感触が味わえて、それが単純にうれしかったのだ。馬鹿だったねえ(笑)

 「使える」ようになったのは、その後半年ほど経って、入力データが1000冊を超えたあたりからだった。これには三鷹自身の記憶力の問題が密接に関連する(笑)前に買った本を2度買うことが無くなった。書き物、調べ物をする際に、本のタイトルや著者名を間違えなくなった。

 やがてハードがPC8801MRを経て、16ビットのPC9801mk2になった。ワープロとパソコン通信はすぐ98に移行したが、その時点で2000冊を超えていた「蔵書目録」の移行は困難だった。PC98には「桐」という、リレーショナルデータベースソフトがあった。使い勝手が実に良いソフトであると分かったのだが、8ビット機の「パラム」のデータを16ビット機にコンバートする面倒くささは、想像を絶していた。フロッピーの容量はもちろん、フォーマットからして違うのだ。今でも思うのだが、「MS-DOSのテキストファイル」というファイル形式が標準化したのは、まさしく一個の「革命」だった。それ以前と以後とで、データコンバートの苦労が激減した。

 悪戦苦闘の末、ギブアップしてプロに任せることにした。「パラム」を作った高電社に直接連絡をとって依頼した。お値段は5万円。たかだか1メガ足らずのデータのコンバートに5万円は高すぎる、というのが今の感覚だろう。当時の三鷹も「安い」とは思わなかった。が、「リーズナブル」と思ったことは確かだ。

 その後、「桐」の「蔵書目録」は年々肥大化している。8ビット時代と比較すれば、データ件数で10倍以上、データ量じゃその数倍。今や、三鷹自身の「自然脳」に必要に応じて接続される「外部記憶」として、きわめて有効に機能している。そもそも「本」それ自体が人類一般に対する「外部記憶」として機能してきたんだけんどもね。

 OSからWindowsへの移行は、馬鹿みたいに簡単だった。今はまだ「桐」を使い続けているが、バージョンアップの煩雑さに、そろそろ嫌気が差しつつある。「桐」と縁切りして「エクセル」を使うハメになるとしても、移行は実際簡単だ。とっても気が楽。ふと思ったんだが、「データコンバート」てな用語自体、今や死語と化しているんじゃないか?

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