数年ぶりの朝日新聞

(99/05/07)

 今年のGWは、子ども連れで帰省していた。パソコンもビデオも、本さえも無い環境だった。子どもの相手をする以外はまったく暇なので、新聞を隅から隅まで読んでしまった。余談ながら、「育児をしない男を父親とは呼ばない」とSAMが偉そうなことを言っていたが、三鷹はSAMの十倍は育児に労力を費やしている…と思う。

 三鷹の実家で購読しているのは朝日新聞である。三鷹の生まれる前からで、なんと祖父の時代からだったりする。三鷹自身も数年前まで朝日を購読していたが、思うところがあって、産經に切り換えた。

 で、実に数年ぶりに朝日を1面からTV欄までキチンと読んだのだが、記事のいくつか…主にコラムや論説の類だが…いったい何を言わんとしているのか、非常に分かりづらい。自分でも驚いてしまった。

 たとえば5月3日、憲法記念日の社説だ。社説とは、新聞社の主張を掲載するものであり、一読して内容が簡明に理解できるものであってしかるべきだろう。それがなぜ難解なのか? 以下、本文を引用しつつ論評を試みてみたい。

 「「個」が尊重される明日を」というタイトルだ。タイトルだけ見ても、憲法をテーマとした文章であるとは分からない。全文を読んで、ようやっと、このタイトルの意味せんとするところが把握できたのだが、それは後に説明しよう。

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 日本国憲法が施行されてから五十二年がたったことし、憲法をめぐって見過ごせない動きが起きている。
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 改憲の気運が全国民的に高まっている事態を指しているのだな、となんとなく分かる。三鷹は保守反動で、産經新聞を購読してるから(笑) それを朝日は「見過ごせない動き」と批判的に論じようとしているのだな、とも推察できる。

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 国会に憲法調査会を設置する計画が進んでいる。「まずは論議を」と唱えるが、憲法改正への空気を盛り上げ、道筋を探ろうとする政治的意思が、その原動力となっていることは明らかだ。運用次第では憲法九条の歯止めを無力化しかねない危うさをはらむ日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法も近く成立する。
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 憲法改正の必要がないと国民の大多数が考えるなら、国会に憲法調査会を設置する意味はない。改正の必要があると国民の多くが考えているから、民意を汲み上げ、論議を尽くすための場所を国政の場に設けようとしているのだ。民主主義社会においては、当然の手続きである。それを朝日は「政治的意思」などと、ことさらに権謀術数めかしてみせる。

 ガイドライン関連法も、同様に民主主義のルールに従って成立する。日本周辺の有事に備えるために必要不可欠な法整備であり、当該地域での無法行為に対する抑止力を強化し、地域の平和と安定に寄与するものだが、朝日は「歯止めを無力化」「危うさ」という言葉を使って、「暴発」「危険」イメージを煽ろうとする。

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 私たちは、当面の日本社会の改革には、憲法理念を貫くことこそが必要だと主張してきた。二十一世紀を迎えようとするいま、憲法が未来に向けて果たすべき役割について、一層の熟慮が必要だと思う。
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 「憲法が未来に向けて果たすべき役割」とは具体的に何か良く分からない。現在の憲法が果たすべきは、何よりも現在の役割である。しかるに、第九条と自衛隊との矛盾のように、憲法の文面と、現在の実情との距離がはなはだしいものとなっている。空想的平和主義をうたう憲法理念は空文化し、憲法は「現在の役割」を果たせないでいる。ゆえに、改正が求められているのだ。

 それとも朝日の主張は、未来に向けて、憲法理念を貫き、憲法の文面に合わせて、自衛隊を廃止せよというものなのだろうか。ならばそう主張すれば良いだろうに。実に分かりにくい。

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 憲法は「不磨の大典」ではない。真に必要な改正条項が生じた、との国民の合意があれば、改正すべきである。
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 しかり、正論である。

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 だが、さまざまな改正論のうち、情報公開や環境権の強化など国民の支持が幅広くある事項は、憲法理念に沿ったものであり、改正しなくても制度の充実は図れる。
 改正しないと実現できないとみられるのは、集団的自衛権の行使を可能にするなど、九条にかかわる事項だが、その改正には多くの国民が反対している。
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 「憲法理念に沿った改正論と、沿わない改正論があり、前者は国民の支持が幅広くあるが、改正不要であり、後者は多くの国民が反対しているので改正は難しい。どちらにしても改正はない」ということだろうか? 何を根拠にそのようなことが言えるのか、三鷹にはさっぱり分からない。

 そもそも憲法理念とは、憲法に実際に記された文章によって、具体的に示されているものである。天から降りて来る神さまのようなものではない。憲法改正とは、憲法理念の改正でもある。朝日の主張は「憲法改正は良いが、憲法理念は神聖不可侵である」ということなのだろうか? ならば、憲法のうち理念が記された部分(例えば前文)を「不磨の大典」視せよとの主張であり、直前に述べた「正論」と矛盾する。

 また、情報公開や環境権強化に大多数の国民が賛成し、九条改正には反対する国民が多い、とのことだが、これには論理のトリックが含まれている。

 最近の世論調査によれば、憲法改正賛成47.4%に対し、反対20.8%、わからない31.8%と、改正賛成派は反対派にダブルスコアで勝っている。改正賛成理由のうち、国会(二院制など)28.3%、第九条27.4%に対し、環境権は15.2%に過ぎない。以下、前文9.3%、象徴天皇制4.2%と続き、情報公開は独立項目を立てられないほどだ。(5月3日付産經新聞)

 もちろん、改正賛成派以外で、情報公開や環境権強化に賛成のひとは少なからずいるだろう。それを合算すれば、九条や前文を理由に憲法改正を主張するひとよりも、情報公開や環境権強化に賛成するひとのほうが多数となるのかもしれない。

 そこまでキチンと説明すれば分からないでもないが、朝日は、あえて分かりにくい言い方をする。改正賛成派が反対派にダブルスコアで勝っているという現実を、そのまま読者に提示したくないのだろう。だから、改正賛成反対から論点を微妙にずらし、「国民の支持が幅広くある」「多くの国民が反対している」など、あいまいな言い方に終始している。

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 調査会設置論者の中には、アピールしやすい項目のかげに九条改正という「よろい」を隠し持つ向きがある。引き続き厳しい目を注いでいかねばならない。
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 これは「衣の袖から鎧が見える」ということわざを踏まえた言い回しであり、ことわざの意味するところは「表面柔和な提案をしながら、陰では武力による制圧をちらつかせることのたとえ」である。九条改正論に、軍国主義や好戦論といったイメージをなすりつけようとする意図による言い回しだろう。また、前述の世論調査を見ても分かるように、改正賛成派の改正理由の第2位に九条改正が挙げられている。賛成派は九条改正案を「隠し持」っているわけではない。これも、権謀術数めかした歪曲表現である。

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 こうした動きとからめて注目したいのは、日本社会の停滞感が強まる中で、「公共性」という言葉を手がかりに、将来像を描こうという試みが盛んになってきたことだ。そこには二つの流れが見て取れる。
 ひとつは、日本社会の「解体」を憂え、かつてあった公共性を「再建」しようという立場、もうひとつは、日本社会の「成熟」を踏まえ、新たな公共性を「創造」していこうとする立場である。
 人々が私的な世界に閉じこもることなく、公的な領域にかかわっていくべきだという認識では、両者にあまり差はない。
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 「公」を主に「国」と考える立場と、「公」を地域社会など「共同体」と国連など「国際社会」と考え、意図的に「国」をすっとばす立場、と言い換えたほうが、論点がハッキリするだろう。後者が「国」に対する反感を基調とする立場であることを押さえておきたい。両者には大きな差がある。朝日はもちろん後者である。

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 前者は、国民が基本的に同質な価値観を持つとみるところから出発し、伝統的な道徳や権威、文化を復権させれば、失われた秩序と規律を回復できると考える。
 後者は、この社会は異質で多様な価値観を持つ人々の集まりだという前提に立ち、合理的な民主主義の手続きに習熟して対立や摩擦を解消することを重視する。
 どちらが、私たちの明日にふさわしい考え方だろうか。
 憲法は後者の立場に立っていると思う。例えば一三条の前段「すべて国民は、個人として尊重される」は、個々の生き方や考え方に対し、国家が特定の価値観に立って干渉するのは許さない、ということだ。
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 「公共性」の大切さが主張される背景には、現在の日本社会がそれを喪失しつつあるという危機感がある。そうした精神風土の荒廃を招いた一因に、他ならぬ憲法があると考えるのが前者である。憲法理念が奇形的に拡大解釈され、「公共性」を大きく侵害するほどに「個人の尊重」が優先されるケースが多々ある、と。

 例えば、たった一軒の移転反対によって、道路建設計画が頓挫し、毎日数万人が交通渋滞を甘受させられるケース。例えばたった一人の子どもの逸脱行動によって、クラス全体が授業を受られなくなるケース。ともに全体とのバランスを欠くほど「個人の尊重」がなされた結果、「公共性」が犠牲となっている。

 また、朝日は「合理的な民主主義の手続き」を持ち上げてみせるいっぽうで、「国会での議決」という、まさしく憲法に即した「合理的な民主主義の手続き」に従って可決されるガイドライン関連法に「暴発」「危険」イメージをなすりつけ、同様に「合理的な民主主義の手続き」に従って設置される憲法調査会についても、権謀術数の手段であるかのごとき悪印象を読者に植え付けようとする。朝日のいう「合理的な民主主義」というのは、朝日と同様の立場の者が行う場合に限っての「合理」と「民主主義」であり、朝日の反対者には適用されない種類の概念なのだろう。そういう二枚舌的主張を、一般には「合理」とも「民主主義」とも呼ばない。

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 不登校のこどもが増えるにつれて、いつどこで学ぶかはこども個人の選択の問題だという考え方が広がりつつある。
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 そのような考えが教育現場で主張された結果、「いま、この教室」では学びたくない、別の時間、別の場所で勉強したい、と騒ぎ立てる子ども個人の「選択権」はまっとうされるかもしれないが、その教室で現に勉強しようとしている他の子どもたちの「学ぶ権利」は確実に侵害される。

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 日の丸、君が代は事実上、国旗、国歌としての扱いを受けてきた。だからといって、旗を掲げたくない、歌を歌いたくない個人に、国が強制するのはよくない。
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 そのような考えが教育現場に浸透した結果、国旗、国歌ほどの伝統も実績もない、つい昨日出来たばかりの学校の校旗や校歌を「揚げたくない」「歌いたくない」と子どもが「個人」として主張したら、どう説得するのだろうか? 子どもが嫌いな授業を「受けたくない」と主張したら、どうするのか? 子どもに対する集団教育から、強制としての側面を完全に除き去ることは、不可能であろう。国旗国歌の強制は良くないが、別のアレコレの強制は受け入れろ、と、どのような理屈で子どもを納得させられるのだろうか?

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 秩序や規律を重くみる立場からは、「混乱」であり、「共同体の崩壊」にも映るのであろう。しかし、どの国をみても、多様な価値の共存を認めるのは、避け難い歴史の流れといえる。要は、いかに共生と連帯の仕組みをつくっていくか、なのだ。
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 例えばカトリック信徒は、仏教の儀式に参列した際には、仏像に手を合わせ、読経に唱和しつつ、ただ内心で仏ではなく、「神」に祈るのだそうだ。長い伝統と歴史を持つ宗教ならではの、「多様な価値の共存を認める」ための知恵と言えよう。

 それとは対照的に、公教育の場で、年に一日しかない入学式や卒業式の、ほんの数時間国旗を掲揚し、ほんの数分間国歌を斉唱する…それだけのことに大反対し、衆を頼んで騒ぎ立てる連中がいる。この春には痛ましいことに、公立学校の校長を自殺にまで追い込んだ。彼らこそが朝日流に「共生と連帯の仕組みをつくる」とのたまっている連中である。どのようにすればそのような「仕組み」を作れるのか? 自分たちに真っ向から反対する、例えば三鷹のような人間の主張する「価値」と、どのように「共存」なさるつもりなのか? その方策を具体的に示さぬ限り、その場その場をとりつくろうだけの空虚なスローガンにしか聞こえない。

 「避け難い歴史の流れ」というのも良く分からない。そもそも歴史とは、水が高きから低きに流れるように、一方向に流れるものではない。歴史が一定のベクトルを有しているというのは、左翼進歩派に特有の迷信にすぎない。

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 私たちがいう「憲法が未来に果たす役割の熟慮」とは例えばそのことである。
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 ここでようやく「「個」が尊重される明日を」というタイトルに込められた意味が判明する。

 憲法改正を主張するひとびとを「個」を抹殺する全体主義的勢力と決めつけてマイナスイメージを押しつけ、改正に反対するひとびとを「個」を尊重する「共生と連帯」勢力と持ち上げてプラスイメージを付加し、「朝日は後者である」と主張せんがためのタイトルであったのだ。

 いっぽうで「公共性」を侵害してきた「個」の過剰な尊重を棚に上げ、よりいっそうの「個」の尊重が「新たな公共性を創造する」と強弁する。それこそが、実際には現実と乖離し空文と化している憲法の「未来に果たす役割」である、と。「創造」「個」「尊重」「未来」と、読者の耳には心地好い言葉が羅列されるが、内容は空虚であり、イメージ操作による言葉のサーカスに過ぎない。「それってどういう意味? 具体的にはどういうこと?」と正対して問うた瞬間、巨大なシャボン玉が弾けるように消え去るだろう。

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