中国の政治的童話
(99/06/03)
先日、朝日新聞で「中国で消えゆく抗日教材」というコラムを読んだ。著者は中国文学が専門の、某私大の教授だ。
著者はまず、中国の代表的文芸誌に近年掲載された「石がしゃべった」という小説を紹介する。著者自身の要約によれば、こんな内容だ。
「日中戦争時代、日本軍に殺戮の限りを尽くされた河北省のとある山村に、戦後初めて日本の経済視察団の一行が、村内のクリなどの産物の買い付け調査のためにくる。村益のために一行を歓迎したい村長と、いまなお昔の『歴史』が忘れられぬ村民たち。結局村人は過去を語り、日本人一行は改めて昔を想うといった大団円で作品は収束される」
続いて著者は、中国の小学校「国語」教科書から「抗日教材」が消えつつあるという事実を紹介する。文革後には7話あったものが、現在は2話に減ったそうだ。その消えた一話「王少年」(小学1年生用)が全文紹介されている。以下、引用しよう。
「王少年は抗日児童団の一員で、牛の放牧をしながら、八路軍の見張り役もしています。ある日、”掃討”にやってきた日本軍が道に迷い、放牧していた王少年に道案内を命じました。王少年は従うふりをしながら、日本軍を八路軍の潜伏地へ連れていきました。突然四方八方からの銃声です。日本軍の兵士はだまされたことを知ると、英雄王少年を殺しました。この時、八路軍は山から駆け下り、敵軍を全滅しました」
著者は「王少年」について「抗日時代、あちこちに存在した少年英雄の現実を基盤として教材に作られ、歌われてきたものであろう」とするが、三鷹はそうは思わない。春秋戦国の昔からあったであろう、弱者が強者をだまして滅ぼすという寓話に、「抗日児童団の少年」と「日本軍」をあてはめただけの代物だ。例えば中国に侵略されたチベットで、「ラマ教の少年僧」と「人民解放軍」という役振りで、まったく同じ話が語られていたとしても何の不思議もない。役振りの背景に政治的意図が存在するのは言うまでもなかろう。「王少年」の場合は、反日プロパガンダだ。
著者によれば、こうした「抗日教材」が教科書から消え、「石がしゃべった」のような小説が書かれるようになったことを「変化の兆し」として捉らえ、二十一世紀における日中関係を建設的に模索すべきなのだそうだ。
判断力が未熟な小学生に反日プロパガンダを注ぎ込む「王少年」のごとき政治的童話が、中国の教科書から削除されたのは「日中友好」時代として当然とも言えよう。まだ2話も残っているとしたら、そのほうが問題だろう。「石がしゃべった」がなぜ「変化の兆し」なのだろうか。著者によれば、「(村長の姿に)村益のためには過去を葬るのも仕方ないといった譲歩がはっきりとうかがえるから」とのことだ。
この著者のナイーブさと言うか、単純素朴さには、あきれるのを通り越して感嘆してしまう。この程度の分析で「教授」を名乗れるとは、文学もナメられたものだ。また、このような小説が今の中国で「文学」として通用しているとしたら、中国文学は未だ真の文学には非ず、政治の道具にすぎない証拠である。
中国現代史を読むに、「殺戮の限りを尽く」したという日本軍が去った後の中国を独裁的に支配したのが、毛沢東指導下の中国共産党だ。毛は、反対派の粛清や虐殺、政策ミスに起因する飢餓などにより、数千万レベルの自国民を死に至らしめた。毛の犠牲者数は「八千万」にも及ぶという最近の研究もあるようだ。「石がしゃべった」の舞台である「河北省の山村」に限って、毛の手から逃れられたとは思えない。戦中に日本軍が「殺戮の限りを尽く」したというのが事実だとしても、それに相当するか、あるいは、それ以上の犠牲者を戦後に出している可能性が高い。なぜそうした「過去」については、村長も村民も一致して忘却し、葬り去っているのだろうか?
その答えは「王少年」に見いだすことができるだろう。村長も村民も小学校以来「王少年」に代表されるような政治的童話を繰り返し聞かされ読まされ、反日プロパガンダに洗脳されてしまっているからだ。だから、経済協力のために訪れた「善き日本人」に対しても「過去」を言挙げせざるを得ない。そのプロパガンダを行った政治勢力は、同時に「毛と毛の後継者による殺戮は忘れろ」との洗脳も行ったのだろう。ゆえに「大躍進」も「文革」も「戦後」はすべてすっとばされ、「戦中」と「現在」が直結する。
もちろん、現実には、どんな「山村」だろうと、そのような洗脳を完全に行うことは不可能に近いだろう。要するに、この小説自体、架空の村を舞台に架空の村長と架空の村民に仮託して語られる、新たな反日プロパガンダなのだ。三鷹が「政治の道具」と評した理由が分かっていただけただろうか。
古く素朴なプロパガンダである「王少年」においては登場人物は「悪い日本軍」と「少年英雄」であり、結末は「全滅する日本軍」だった。より新しく相対的にソフィスティケートされたプロパガンダである「石がしゃべった」においては、「過去の悪業を忘れた(ふりをする)日本人」と「自らの経済的利益を犠牲にするリスクをおかしてまで、日本の過去の悪業をただす中国人」が登場人物であり、結末は「反省する日本人」だ。日本の経済視察団は、さぞかし高いクリを買わされたことだろう(笑)
さて、この程度の分析も出来ずに、単純素朴に反日プロパガンダを受容する著者が大学で「教授」する「中国文学」がいかなるものか? まんがの「三国志」や「水滸伝」しか知らないこどもにさえ笑われるかもしれない。
たとえば「蒼天航路」(講談社「モーニング」連載中)の愛読者の大多数は、彼が想像もつかない高いレベルで「中国」と「文学」の双方を理解していると三鷹は思う。著者にも一読をお薦めする次第である。
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