朝日新聞の「臨界事故」報道
(99/10/23)
「臨界直後に出来た放射性物質 チェルノブイリ飛散量の1/100 東海村事故最大値推計」という見出しの記事が朝日新聞10月19日付夕刊に掲載された。以下のような内容である。
茨城県立医療大の加藤和明教授の推計によれば、JCOの臨界事故直後に、およそ30万キューリーの核分裂生成物(放射性物質)ができていた。これはチェルノブイリ原発事故の推定飛散量の100分の1から1万分の1になる。沈殿槽が完全密閉構造だったら爆発し、放射性物質の多くが飛散していた可能性もある。実際には大半が施設内に残ったので、周辺地域の健康への影響は無いとみられる。今回のような急激な反応の場合、不安定な放射性物質の割合が高いため、放射能量は10分で約10分の1、1日で約1万分の1に減ったと見られる。
なるほど、臨界事故というのは恐ろしいものである、ということは何となく分かる。では、今回の事故の規模はどの程度のものだったのだろうか? 現代国語の問題として出したらどうだろう。「チェルノブイリの100分の1」と答えそうな生徒が相当数出現しそうだ。あるいは「チェルノブイリと比較すべき規模」と。インテリ層に多いと言われる朝日新聞読者ならば、そんなことは無いだろうけど(笑)
朝日の記事は、「チェルノブイリ事故の実際の飛散量」と「JCO事故の生成量」という、異なる性質の数値を強引に比較して、出てきた「100分の1から1万分の1」という100倍もの幅を持つ概算値(?)の、その最大値を採用し、「チェルノブイリの100分の1」という見出しを「生成」している。
「チェルノブイリ事故で生成された放射性物質」のすべてが飛散したわけではないから、仮にJCO事故の「生成量」がチェルノブイリの「飛散量」の「100分の1」だったとしても「生成量」同士を比較すれば、JCO事故の規模はチェルノブイリ事故の「100分の1」以下だろうということは、わざわざ計算するまでも無いだろう。
「JCO事故で爆発が起きていたなら飛散した可能性のある放射性物質」を「チェルノブイリ事故で実際に飛散した放射性物質」との比較だとすると、さらにタチが悪い。「可能性」と「実際」との比較がイーブン、せめて数分の1のオーダーなら比較する意味があろうが、100分の1では比較自体がナンセンスだ。「もしも君の車が衝突していたら、死亡事故の100分の1の事故となった」と言われて、「それは危なかった」と思うドライバーはいないだろう。「次は気をつけよう」とすら思わないかもしれない。
それに加えて「飛散」の実態もまったく違う。チェルノブイリでは黒鉛火災に加えてメルトダウンまでが起こり、原子炉自体が破壊されてしまった。放射性物質が大気の相当な高さにまで吹き上げられて、風に乗って飛散し、周辺諸国にまで及ぶ大規模な放射能汚染が発生した。仮にJCOの沈殿槽が破裂していたとしても、それほどの「爆発」となったとは考えられない。さらに、チェルノブイリで飛散した放射性物質には、半減期が何十年にも及ぶセシウムやストロンチウムの同位体が含まれていたが、JCOの場合は記事で言うように「10分で10分の1」という種類のものだ。
以上、原発問題の専門家とはほど遠い、「文系」の三鷹でも簡単に推定できることを申し上げた。朝日新聞のインテリ読者諸氏には、分かり切った退屈な話ではなかったかと心配である。
誤解無きように申し上げておくが、三鷹は「JCO事故など大した事ではなかった」と主張しているのではない。逆である。どのような安全設備を完備し、完璧な運用マニュアルを作成したとしても、そこで実際に働く「人間」が裏切れば、事故は容易に起きる。今回の事故がまさしくそれだ。別の言い方をすれば、そこに「人間」が存在する限り、「絶対安全な原子力施設」など有り得ないということである。
事故を起こすのも人間なら、それを防ぐのもまた人間である。偏向報道で読者をミスリードする新聞記者も人間なら、ミスリードされる読者も人間。それを指摘するネットワーカーもまた人間だ。そして、これは厳然たる事実として申し上げるが、「絶対安全とは言えない原子力」であろうとも、そこから供給される電力無しでは、それこそ絶対に生存不可能なのが、現在日本に居住する大多数の人間である。
インテリならざる、朝日新聞読者以外の人びとが「チェルノブイリの100分の1」てな愚劣なミスリードに踊らされる可能性を恐れればこそ、このような退屈な話を書く。そうしたミスリードが、人びとの間に原子力エネルギー利用への盲目的な反感を喚起するいっぽうで、反感の標的とされる原子力行政に携わる組織と人間のモラルと常識を歪ませ、ついには、さらに重大な事故への遠因となることを危惧するゆえである。
本棚へ。
トップへ。