ぶっとび!「赤い旗」槙本楠郎

(99/12/02)

 神田神保町の古書店で、ふと目にとまった本を手に取った。背と表紙に「赤い旗 童謡集 槙本楠郎著」とある。奥付には「昭和五年五月五日発行」とあるが、新本同様の状態だ。よく見ると下の方に「名著復刻 日本児童文学館 昭和46年8月 ほるぷ出版刊」とある。戦前に出たこども向けの本を、戦後に復刻したものであると分かる。

 前書きを一読してぶっとんだ。以下、その全文を紹介する。


プロレタリアの少年少女へ


 貧しい子供たちよ。

 おぢさんは、みんなが大へん可愛い。この本は君たちに読んでもらひ、歌つてもらうために書いたのだ。金持の子供なんか読まなくたつていい。

 おぢさんは君たちのお父さんやお母さんと同じやうに貧乏だ。そして君たちのやうな元気な可愛い子供を持つてゐる。去年は六つになるスミレといふ女の子を一人亡くした。それはおぢさんが貧乏なために、金持の子のやうに大切にしてやられなかつたからだ。だがおぢさんにはまだ二人の子供がある。もしこの二人が死んでしまつても、おぢさんはまだまだ気を落しはしまい。それは元気な君たちが大勢ゐてくれるからだ。それほどおぢさんは君たちを、自分の子のやうに思つてゐる。

 おぢさんは永いこと、いつも、君たちにいい本をこしらへてあげたいと思つてゐた。けれど貧乏では本も書けない。今度やつとのことで、この本をつくることができた。けれどこれは手はじめで、そんなにいいものとは云へない。第一、本が高すぎる。それに童謡(うた)だつて、まだほんとうに君たちに好かれないかも知れない。けれど君たちは金持の子や、金持の味方の詩人やまたそいつらと一しよに貧乏人を馬鹿にしてゐる奴らのやうに、このおぢさんの童謡を一も二もなく、頭からバカにし、悪口なんか云はないだらう。きつと、おぢさんの子供やおぢさんを好いてくれる子供たちと同じやうに、よろこんで読んでくれ、よろこんで歌つてくれるにちがひない。

 そこで、わたしの好きな子供たちよ。おぢさんはみんなとお約束しよう。この次に出すおぢさんの本は、きつといい本で、もつと安くすること、を。

 で、今度は君たちから、おぢさんにお約束をしてもらひたい。と云ふのは、おぢさんに前の約束をきつと守らすためには、君たちはこの本をよく読んで、そしてその中の一番好きな歌とか、嫌ひな歌とか、この歌はこんな時に使つたらどうだつたとか、今度はこんな時に歌ふこんな歌を作つてほしいとか、そう云つたことをドシドシ手紙かハガキかで、云つてよこしてもらひたい。また君たちの作つた歌もぜひおくつて見せてほしい。も一つ。この本は自分ひとりでは読まないで、なるべくお友だちみんなに見せ、読ませ、貸してやるやうにしてもらひたい。そしてみんな仲よく、元気に、大勢で歌ふことだ。−−これを是非お約束してもらひたい。

 ではみんなよ、早く大きくなつて、君たちも勇敢なプロレタリアの闘士となつて、君たちや君たちのお父さんお母さんを苦しめてゐる奴らを叩きのめしてくれ!

一千九百三十年四月
東京府下吉祥寺四八〇

槙本楠郎



 あらためて、今度は中表紙を確認すると「プロレタリア童謡集 赤い旗」とあり、「赤い旗」のロゴのバックは、鎌とハンマーをぶっちがいにした赤旗だ。平成の目で見ると、ポップアートのようなキッチュ感がたまらない。

 なるほど、これが「プロレタリア児童文学」なる代物かと合点がいった。貧しい子供たちよ、早く勇敢なプロレタリアの闘士に成長し、金持ちどもを叩きのめせ!…ちうことやね。実に分かりやすい。日共の「しんぶん赤旗」など、最近は一般紙と区別がつかないような、平凡かつ穏健な紙面構成だが、ぜひ見習ってほしい。とりあえず日曜版の家庭欄で「貧しい子供たちよ!」と呼びかけてみてはどうだ? そんなことをすれば読者の反感を買うだけか(笑) 「共産党を支持してるからって、ウチは別に貧乏なんかじゃないよ!」と。

 なるほどさように時代は変わってしまったのだ。槙本楠郎の「赤い旗」は、そんな時代の読者の脳味噌にドーパミンを分泌させるような独特の「味」がある。ピカイチおもしろいのが「前書き」で、肝心の童謡はどれもこれも、どうしようもなくつまらないのが難だが。一つ二つ紹介しておこうか。

飴ちよこブルジヨア

飴屋のぢいさん プープと吹けば あれあれふくれる 大蛸入道 いやいや狸に よく似たおやぢ こいつ、たしかに よくないやつだ。
お尻の竹から プープと吹けば おやおやふくれる でッかいお腹 飴ちよこブルジヨア でッかいお腹 プープと吹く間に あら、あら、パチン。


(三鷹評:デブを差別すんな)

赤い旗

起てよ 起てよ 集まれ、子供 われ等の旗は われ等で守らう なびけ はためけ ×い旗
進め 進め 手を組め、子供 われ等の道は われ等で開かう うねれ 波打て ×い旗


(三鷹評:伏せ字の意味があるのか?)

 とまれ、現在の感覚で過去をあれこれ批評するのはナンセンスである。三鷹はこの際、「昭和5年のプロレタリアの子供」を一人神降ろしして我が身に憑衣させ、槙本のおぢさんに一言云つてやらう。


 槙本のおぢさん。おぢさんはずるい人だね。

 おぢさんは明治三十一年に岡山の裕福な地主の家に生まれて、上京して早稲田大学に入学したんだつてね。でも、せつかく入つた大学を途中で辞めて、「プロレタリア文学の活動家」になつた。もともと金持だつたのが、わざと貧乏になつたんだね。

 スミレちやんが死んだのは可哀さうだつたけど、もしそれがおぢさんの云ふとおり「おぢさんが貧乏なため」だつたなら、「おぢさんがわざと貧乏になつたため」だろ。「おぢさんのためにスミレちやんは死んだ」と云ふことになるよね。

 「おぢさんが貧乏なためスミレちやんが死んだ」とおぢさんが云ふのは、おぢさん以外の、もともと貧乏な僕たち「プロレタリア」に「おぢさんも貧乏だ。君たちの仲間だ」とおもねりたいためなんぢやないの? そのためにおぢさんが、スミレちやんが死んだことをわざわざ云つてゐるのなら、スミレちやんは浮かばれないよ。本当に可哀さうだよ。



 ……「プロレタリアの子供」にしては、話し方がちよとストレヱトさに欠けるやうだ。さては邪霊がバグつたか? 「自分のこどもを死なせた話をネタに本売ろうとするんぢやねえ」と云ふ強烈な電波が、いま一瞬飛んだやうな……

本棚へ。

トップへ。