トレブリンカ
(2003/11/10)
「トレブリンカ」解題。
以下のリポートは、1996年5月10日から6月17日にかけて、商用パソコン通信ネットワークPC-VANのSIG「Books」6番フォーラムボードに連載したものです。後にSIG「平和のひろば」に転載しました。
「トレブリンカ」とは、ナチスドイツがポーランドに建設した、ユダヤ人絶滅を目的とした収容所です。およそ80万人のユダヤ人がここで殺されました。
当時三鷹は、「ホロコースト否定者」の西岡昌紀氏と論争をしておりまして、そのプロセスで、トレブリンカ絶滅収容所についてのレポートを行うことになったものです。
読んでいただければお分かりかと思いますが、当時は、「アウシュビッツ」以外のナチスの強制収容所について、多少なりとも詳しく解説する日本語文献が、ほとんどありませんでした。三鷹のリポートは、さまざまな資料からの断片的記述を継ぎ合わせて、全体像を再現せんと模索したものです。
その後、ラウル・ヒルバークの大著「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」(柏書房)など、すぐれた参考文献の翻訳刊行がなされております。この問題に興味をお持ちの方は、ぜひ一読なさるよう、お薦めいたします。
三鷹の稚拙なレポートでは、表記の不統一をはじめ、ソゴやらミスがたくさんありますが、あえて、初出のまま転載いたします。
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#2044/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9: 9 ( 24)
トレブリンカへの道(0) 三鷹板吉
★内容
$1603/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/10 22: 4 ( 19)
トレブリンカ絶滅収容所(承前) 三鷹板吉
★内容
西岡さんの前々からのリクエストに応じまして、トレブリンカ絶滅収容所に関し
て三鷹が知り得たことを、ボード参加者諸氏に紹介することにします。
三鷹自身、調べて初めて分かったのですが、日本の出版物においては、トレブリ
ンカに限らず、アウシュビッツ・ビルケナウ以外のナチスによる収容所についての
記述が非常に乏しいのです。また、ホロコーストに関する基礎的な研究文献の多く
が日本には翻訳紹介されていません。歴史学者が口を揃えて「名著」と持ち上げる
ラウル・ヒルバークの「ヨーロッパユダヤ人の絶滅」も未翻訳です。
どうやら大学学部レベルの歴史学徒も含めて、日本人の大多数は「アンネの日記」
で主人公の少女の運命に涙し、「夜と霧」で極限を生き延びた人間の強さ尊さに感
銘を受け、あとはせいぜいTVシリーズの「ホロコースト」や映画「シンドラーの
リスト」を観たくらいで、ホロコーストについては「知ってるつもり」になってい
たようです。もちろん、三鷹も。
それでも何冊かの本を読めば、断片的なものも含めて、いくらかの知識は得られ
ます。以下述べるのは、それらについての三鷹なりの、とりあえずの「まとめ」と
してお読みください。
#2045/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:10 ( 55)
トレブリンカへの道(1) 三鷹板吉
★内容
$1604/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/10 22: 5 ( 50)
トレブリンカへの道(1) 三鷹板吉
★内容
「より強き種族が弱者を駆逐するであろう」(アドルフ・ヒトラー「我が闘争」)
ナチスが計画し実行したのは、彼らの疑似科学による人種論と優生学が規定する
「劣等者」の排除でした。「人種」としてはユダヤ人を筆頭とした「アーリア人以
外」の人々。そしてドイツ人を代表とする「アーリア人」においても犯罪者、怠業
者、アル中、同性愛者、そして精神病患者など心身障害者も排除の対象とされまし
た。
ドイツ国内における、障害者の排除プロセスをざっと述べれば、
1934年 障害者から生殖能力を奪う断種法施行(39年9月1日中止命令)。
36年 ベルリン五輪を機会とした障害者の強制入院。
39年 障害児「安楽死」命令。
同年7月 成人障害者の組織的「安楽死」計画。
この39年7月に始まった成人障害者の組織的「安楽死」計画が、後に「T4作
戦」と呼ばれるものです。
「安楽死」の手段としてモルヒネ、スコポラミン、青酸、一酸化炭素ガスが検討
された結果、一酸化炭素ガスが採用されました。具体的には、夜間、患者の就寝す
る病室にガスを充満させる、という殺害方法でした。
1939年9月1日、ドイツは電撃作戦でボーランドに侵攻しました。断種法中
止命令当日です。
断種法中止は、障害者の人権を守るためだったのでしょうか? 事実が示すとこ
ろはまったく逆です。戦争という「非常時」を背景に、生殖能力を奪う手術をほど
こすという、より「人道的」な方法から、障害者本人の抹殺という、より「簡便」
な方法への切り換えが行なわれたのです。
虐殺の規模もより大きなものとなりました。9月29日のポーランド降伏後、ド
イツならびにポーランドの精神病院で患者の虐殺が行なわれました。ドイツの精神
病院から旧ポーランド領に移送後、虐殺された患者もいます。
虐殺方法は、射殺とガス自動車の使用です。このガス自動車は、後にヘルムノな
どで使われた排気ガスを使用するものではなく、ボンベからの一酸化炭素ガスを車
内に送り込み、内部の人間を殺すものでした。
1940年4月、「安楽死計画」の本部は、ベルリンのティーアガルテン(動物
園通り)4番地に移りました。「ティーアガルテン4=T4作戦」という正式暗号
名の由来です。
その少し前、40年1月、ベルリン西部ハーフェル河畔のブランデンブルク州立
精神病院に最初のガス室と焼却炉が作られ、約20名の患者を使った「試運転」が
行なわれました。患者たちは裸にされ、シャワー室に似せたタイル貼りの部屋に入
れられました。ボンベからの一酸化炭素ガスが部屋に注入され、彼らは殺されまし
た。
この「安楽死実験」に立ち合い、ガス栓の操作法を学んだ医師の一人が、イルム
フリート・エーベルル。彼こそが、後に、トレブリンカ絶滅収容所の初代所長に任
ぜられた人物です。
#2046/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:11 ( 51)
トレブリンカへの道(2) 三鷹板吉
★内容
$1605/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/10 22: 6 ( 46)
トレブリンカへの道(2) 三鷹板吉
★内容
ブランデンブルク州立精神病院に作られたのと同様の、一酸化炭素ボンベを使用
するガス室と焼却炉が、グラーフェネック、ゾネンシュタイン、ハルトハイム、ベ
ルンブルク、ハダマールの精神病院に作られ、患者の組織的虐殺が行なわれました。
ドイツ全土の精神病院の患者たちは、これらのガス室完備の病院に「移送」され、
殺されました。ガス室の他、ルミナールの注射による殺害も行なわれました。
T4作戦において虐殺対象とされた精神病患者の中でも、ユダヤ人患者の扱いは
特別でした。ドイツ人患者の場合は、病名や労働能力の有無が考慮され、虐殺を免
れた患者も多数存在したのですが、ユダヤ人患者の場合、そのすべてが虐殺対象で
した。
1940年6月、ベルリン・ブーホ精神病院から200名のユダヤ人患者がブラ
ンデンブルク精神病院に移送され、ガス室で殺されました。これが、ナチによる最
初の「ガス室を使ったユダヤ人虐殺」です。
T4作戦は、40年1月から41年8月の約1年半行なわれました。その間に殺
害された障害者は7万人にもおよびます。
さて、ナチスの「劣等者」虐殺は、精神病院の患者から強制収容所の収容者へと
対象を拡大します。
ポーランドの降伏後、ドイツはデンマーク、ノルウェーなどを次々に侵略し、フ
ランスを降伏させて、北フランスを軍政下におきました。それらの地域から大量の
捕虜が強制収容所に送られ、各収容所は過密状態になりました。
この問題を解決するため、収容所を管理する親衛隊を統括するヒムラーは194
1年の初め、収容者の中で労働不能の病人などを「選別」し「安楽死」させる作戦
を発動しました。T4作戦の援用であり、「廃疾作戦」あるいは「特別作戦14f
13」と呼ばれます。
ガス室を備えた4つの精神病院、ベルンブルク、ゾネンシュタイン、ハダマール、
ハルトハイム各精神病院には、それぞれの地域ごとの強制収容所が割り当てられま
した。T4作戦に従事した医師たちが、強制収容所を回り、「労働不能」収容者を
「選別」しました。収容者に対しては「労働不能者は保養所に移送される」と偽り
の布告がなされていたため、多くの収容者が移送を希望したそうです。
アウシュビッツでも「選別」は行なわれました。1941年7月、アウシュビッ
ツにガス室が建設される以前のことです。「選別」された収容者は、ゾネンシュタ
イン精神病院に移送され、ガス室で虐殺されました。これが「ガス室を使ったアウ
シュビッツの収容者の虐殺」の最初です。
「14F13」は、41年初めから43年4月まで行なわれ、2万人ほどの「労
働不能」収容者が虐殺されました。
そして、T4作戦は、ポーランド全土のユダヤ人絶滅を目的とした「ラインハル
ト作戦」へと発展的に解消します。「トレブリンカへの道」が開かれたのです。
#2047/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:13 ( 46)
トレブリンカへの道(3) 三鷹板吉
★内容
$1606/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/10 22: 7 ( 41)
トレブリンカへの道(3) 三鷹板吉
★内容
ドイツがポーランドを電撃作戦で侵略、降伏させる直前の、1939年9月20
日、帝国保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒは、ユダヤ人ゲットーの設立命
令を出しました。これにより、ポーランドなどドイツ支配地域に住むユダヤ人は、
生活の場を奪われ、生まれ育った町や村から追放されて、都市内のブロックを区切
って作られたゲットーに強制的に移住させられました。
ユダヤ人ゲットー自体は、中世以来のヨーロッパ諸都市では珍しくはありません
でした。キリスト教徒により差別され、迫害されたユダヤ人は、都市内の特定地域
に住むことを義務付けられました。これら「伝統的」ゲットーの生活環境は劣悪な
ものでしたが、ユダヤ人がそこで生きていく条件はなんとか満たされていました。
さまざまな規則に縛られてはいたものの、ユダヤ人がゲットーから外へ出ることも
できましたし、非ユダヤ人がゲットーを訪問することも可能でした。ゲットーは何
百年も続き、タルムード研究など独特のユダヤ文化を発酵させる「酒樽」としての
役割をも果たしました。
ナチスが設立した「新しい」ゲットーは、これら「伝統的」ゲットーとは似て非
なるものでした。狭い区画に大量のユダヤ人を詰め込んだ結果、生活条件は劣悪を
はるかに通り越して生存限界点に近づきました。ワルシャワ・ゲットーの場合、2.
5キロ四方に40万人から60万人が詰め込まれました。現代の東京やニューヨー
クなどとは違い、超高層ビルも地下街も存在しない都市での話ですから、人口密度
の高さは数字から想像される以上でしょう。ゲットーは壁や鉄条網で囲われ、ユダ
ヤ人はゲットー外に出ることを禁じられ、違反者は死刑とされました。非ユダヤ人
のゲットー立ち入りも、特別に許可を得たごく少数を例外として、禁止されました。
ゲットーへの食糧供給も厳しく制限されました。住民一人当たり一日1100カ
ロリー以下だったという計算もなされています。当然、餓死者が発生しました。ワ
ルシャワ・ゲットーでは、1941年の最高時で週に500人が餓死しました。餓
死を免れようと、ゲットー外部から食糧を持ち込もうとする者は見つかり次第処刑
されました。その場で射殺される場合さえありました。さらに冬の寒さ。チフスな
ど疫病の蔓延。ゲットーは、人間を生活させるための場所ではなく、緩慢な死をも
たらすために設立された場所だったと考えた方が良いでしょう。その本質は、「都
市」よりも、アウシュビッツなどのナチス強制収容所にずっと近いものだった、と。
それでも、ゲットーのユダヤ人たちは「生きて」いました。本を読み、みずから
の歴史を記述し、子どもたちを教育し、演劇やコンサートさえ上演されました。そ
うした生活を記録した日記類が、戦後、ワルシャワ・ゲットーの廃墟から発掘され
ています。ユダヤ人たちはよりマシな明日への希望をつないで「生きのびて」きた
のです。
「トレブリンカへの移送」が始まるまでは。
#2048/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:14 ( 65)
トレブリンカへの道(4) 三鷹板吉
★内容
$1607/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/10 22: 9 ( 60)
トレブリンカへの道(4) 三鷹板吉
★内容
1941年8月、T4作戦を終了したクリスチャン・ヴィルトをはじめとするス
タッフは、「ユダヤ人問題の解決」をヒトラーから命じられていた帝国保安本部長
官ラインハルト・ハイドリヒの命により、ポーランドにおけるユダヤ人絶滅作戦に
従事することになります。後に長官自身の名を冠して「ラインハルト作戦」と呼ば
れることになる作戦です。
ヴィルトは、T4作戦では、障害者をガス室で虐殺していたハルトハイム精神病
院の責任者を務めていました
。
1941年秋、T4スタッフはベルリンに集められ、ヴィルトをリーダーとする
92名が再編成されました。スタッフには基礎的な軍事教練がほどこされ、親衛隊
の制服が支給されました。医師たちの白衣が、ドクロ付きの真っ黒な制服に替わっ
たわけです。
ユダヤ人絶滅のための専用施設、すなわちトレブリンカなど絶滅収容所の建設が
決定されたのも、この時です。絶滅収容所のひな形が、T4作戦のガス室付き精神
病院だったのは、当然のこととも言えるでしょう。
虐殺の手順もそのまま踏襲されました。犠牲者をあざむいて施設へと移送する。
衣服を脱がせ、所持品をすべて取り上げる。浴室に偽装したガス室に入れて殺す。
遺体から金歯など貴金属を回収して焼却する。まったくそのままです。
変わったのは、虐殺の規模がT4作戦とは比べものにならないほど大きくなった
こと。作戦に必要な大量の一酸化炭素ガスボンベを用意し、ポーランドへ送るのは
困難だったため、ボンベガスの「代用」として、エンジンの排気ガスが考慮の対象
となったのです。
最初の絶滅収容所はヘルムノです。
ヘルムノは古い小城で、T4作戦の安楽死施設とされる予定が、ラインハルト作
戦への移行により、絶滅収容所とされました。ここで使用されたのはガス室ではな
く、荷台に閉じ込めた犠牲者を排気ガスで殺すガストラックでした。ポーランドの
精神病院で患者の虐殺に使用された、ボンベの一酸化炭素を使うガス自動車とは違
うタイプです。最初の虐殺が行なわれたのは、1941年11月5日です。
ちなみに、排気ガス使用のガストラックが虐殺に使用されたのは、ヘルムノが最
初ではありません。アインザッツグルッペンがソ連で使ったのが最初です。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦でドイツはソ連に侵攻しました。その
時、前線より後方を移動しつつ、男女老人子どもを問わず、ユダヤ人を狩り集めて
虐殺することを任務とした部隊が、アインザッツグルッペンです。A群からD群の
4大隊で編成されていました。正確な犠牲者数は不明ですが、この4大隊によって、
少なくとも50万人、最大で200万人のユダヤ人が虐殺されました。
アインザッツグルッペンによる殺害手段は、当初はすべて銃殺でした。ユダヤ人
の民衆が戦争に巻き込まれて殺されたように偽装するためです。しかし、殺さねば
殺されるという戦闘中なら敵を射つことをためらわない兵士たちも、無抵抗の民衆、
特に女子どもを銃殺するには、心理的な抵抗があります。そこで考案されたのが、
ガストラックでした。
「安楽死」を看板としたT4作戦でもそうでしたが、当時のドイツ人にとって、
ガス殺が、銃殺などと比較して「人道的な殺し方」であり、加害者の心理的抵抗を
軽減するものと考えられていた、ということは記憶しておくべきかもしれません。
また、当時の科学技術水準で可能だった、簡便安価な大量虐殺法の最右翼が「ガ
ス室」だった、ということも記憶しておいた方がよいかもしれません。一つの都市
を一瞬にして全滅させる核兵器の存在を知っている現代の人間とは、多少考え方が
違うはずです。
ヘルムノに続いて設置された、「ラインハルト作戦」の、より大規模な絶滅収容
所が、ベルツェック、ソビボール、そしてトレブリンカです。
#2049/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:17 ( 44)
トレブリンカへの道(5) 三鷹板吉
★内容
$1608/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/10 22:10 ( 38)
トレブリンカへの道(5) 三鷹板吉
★内容
1942年3月、ラインハルト作戦を本格的に実行するための最初の絶滅収容所、
ベルツェックがオープンしました。5月にはゾビボール、7月にはトレブリンカと、
3つの絶滅収容所が揃いました。この3つの収容所で虐殺されたポーランドのユダ
ヤ人は、総計で170万人以上と推定されています。
この3つの絶滅収容所は、T4作戦スタッフが中心となって運営されました。
ベルツェックの初代所長はクリスチャン・ヴィルト。ヴィルトはT4作戦では、
ガス室完備のハルトハイム精神病院の責任者でした。2代目はゴットリープ・ヘリ
ング。ヘリングは、同じくガス室完備のゾネンシュタイン精神病院の副所長でした。
ゾビボールの初代所長はフランツ・シュタングル。彼もハルトハイム精神病院に
いた人物です。2代目はフランツ・ライヒライトナーで、彼を補佐した副所長はグ
スタフ・ヴァーグナー。二人ともハルトハイム精神病院「出身」です。
そしてトレブリンカ。
初代所長はイルムフリート・エーベルル。1940年1月、ガス室での障害者殺
害実験が行なわれたブランデンブルク州立精神病院で、実験に立ち合い、ガス栓操
作を学んだ医師です。2代目はゾビボール初代所長のシュタングルです。
これらの絶滅収容所のガス室を作ったのは、エルヴィン・ラムベルト。彼もT4
スタッフの一人で、精神病院のガス室を作った「実績」を買われたのでした。
トレブリンカのガス室が生まれた背景には、ブランデンブルクから始まる各精神
病院の多数のガス室が存在しました。精神病院のガス室を生んだのはT4作戦。T
4作戦はナチスの障害者政策が生み落としたものです。
トレブリンカのガス室を否定するとするならば、この「血脈」のどこまでを遡っ
て否定しなければならないのでしょうか? その作業を想像するに、三鷹はちょっ
と気が遠くなります。
さて、ナチスによる障害者排除から始まった道は、ようやっと「トレブリンカ」
にたどり着きました。次稿以降、トレブリンカがどういう場所で、そこでいかなる
ことが起きたのか、三鷹が読み知るに至ったことを順次紹介しましょう。
なお、ここまでの記述で三鷹が参考資料としたのは主に「ナチスもう一つの大罪」
と「アンネ・フランクはなぜ殺されたのか」です。ともに「ホロコースト・ブック
リスト」(#1201、1202、1228)で紹介していますので、興味がある方はぜひお読み
ください。
(注:文中のメッセージ番号は、JBOOKS6番フォーラムのものです)
#2050/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:19 ( 71)
トレブリンカ絶滅収容所(1) 三鷹板吉
★内容
$1752/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/19 14:23 ( 66)
トレブリンカ絶滅収容所(1) 三鷹板吉
★内容
さて、いよいよ「本論」に入りましょう。
トレブリンカ絶滅収容所は、ナチスが、ポーランドのユダヤ人絶滅を目的とした
「ラインハルト作戦」のために建設した3つの絶滅収容所の一つです。(他の二つ
はベルツェックとゾビボール)
所在地は、ポーランドの首都ワルシャワから東北東に約80キロほど鉄道で行っ
たところ。ちっぽけな駅が一つあり、ポーランド人農民がごく少数住み着いている
のみの、人口希薄な土地でした。
このトレブリンカには、1941年8月、ポーランド人とユダヤ人を収容した強
制労働収容所が建設されていました。翌42年春から、ここの収容者を使って、約
20ヘクタールの敷地に、絶滅収容所の建設が始まりました。トレブリンカ駅から
絶滅収容所までの数キロ間には、引き込み線路が敷かれました。絶滅収容所の建設
後、従事した労働者たちは処刑されました。
トレブリンカ絶滅収容所が稼働したのは、1942年7月から43年11月。こ
の1年半足らずの期間に、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人をはじめとして、80
万人以上の人々がこの絶滅収容所に移送され、エンジン排気を使ったガス室などで
虐殺されました。
ユダヤ人たちは主に鉄道を使ってトレブリンカへ移送されました。トレブリンカ
に関する収容所側の記録はナチスが湮滅したため、正確な数は不明ですが、ワルシ
ャワ・ゲットーをはじめとする各移送出発地での記録と、到着した車両数に1両あ
たりの搭載人数をかけた計算結果とを突き合わせて、80万人以上が移送されたこ
とが判明しています。
西岡さんは「トレブリンカなどの犠牲者数には証拠がない」と主張しますが、少
なくとも移送者数については、十分な根拠があるのです。
ここで注目しておきたいのは、この絶滅収容所の敷地の狭さです。20ヘクター
ルというのは、450メートル四方にも足りない広さです。
西岡さんに一歩譲ってトレブリンカが絶滅収容所ではなく、通常の強制労働収容
所だったとしましょう。20ヘクタール、450メートル四方の収容所に、1年半
で80万以上の移送者を受け入れることなど、はたして可能だったのでしょうか?
規模がずっと巨大なビルケナウ収容所は、175ヘクタールの敷地に建設されま
したが、収容された最大数(移送直後にガス室に送られた者は除く)は14万人に
すぎません。ビルケナウと比較するとトレブリンカは、11%の敷地に5.7倍の
人間を詰め込んだことになります。ビルケナウの50倍もの「人口密度」です。
「4メートル四方のガス室に150人以上の女性と子どもを入れた」というボン
バ証言が「不可能だ」と断言する西岡さんは、ビルケナウの50倍の人口密度の強
制労働収容所が存在し得たと考えるのでしょうか。
この問題を解決するためには、別の仮説を立てる必要があるでしょう。トレブリ
ンカは移送途中の一時的な収容所にすぎず、そこに送りこまれたユダヤ人たちは、
順次「東方入植地」に向けて出発したのだ、と。だったら、20ヘクタールに80
万人を詰め込まなくともすみそうです。
ビルケナウ並みの人口密度ならば、トレブリンカの可能収容人員は、14万人の
11%で15400人。そこに無理して2万人詰め込んだとしましょう。差し引き
78万人が「入植地」に行った計算になります。
ところが、ソ連にも東欧にも、そのような「入植」が行なわれた形跡がありませ
ん。78万人どころか、1万人単位の「入植」さえ行なわれていないのです。78
万人は文字どおり消えてしまったのですね。いったい、どこへ?
また、西岡さんの言うとおり、トレブリンカの「生き残り」は、100名もいま
せん。80万人のすべてが消えたといっても過言ではないでしょう。「東方入植地」
にも行かず、生き残りもしなかったということなら、「死亡した」という結論しか
あり得ません。
西岡説によれば、ナチスの収容所でユダヤ人が死んだ主な理由は、チフスの流行
ということでした。キャパ2万人の収容所で1年半に80万人が死んだとすると、
年間死亡率は、2600%にもおよびます。26%ではありませんよ。260%で
もありません。2600%、1年で収容者の26倍の人間が死んだことになります。
2週間に1度ずつ収容者が全員死亡した計算となります。「チフス」というのは、
そんなに凄じい病気なのでしょうか?
#2051/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:20 ( 53)
トレブリンカ絶滅収容所(2) 三鷹板吉
★内容
$1777/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/21 1: 8 ( 48)
トレブリンカ絶滅収容所(2) 三鷹板吉
★内容
トレブリンカ絶滅収容所の職員は、所長以下ドイツ人の親衛隊員30名ほどと、
200名ほどのウクライナ人警備兵、それに不定数のユダヤ人特殊部隊によって構
成されていました。(人員数は時期により異なります)
「トレブリンカへの道」で記述した通り、初代所長イルムフリート・エーベルル
をはじめ絶滅収容所の幹部には、障害者の組織的絶滅を目的としたT4作戦のスタ
ッフが含まれていました。T4スタッフには医療関係者が多数いて、エーベルル自
身も医師でした。彼らは、ポーランドのユダヤ人絶滅を目的としたラインハルト作
戦に従事する際に、親衛隊に「異動」させられたのです。もちろん、彼ら以外に筋
金入りの親衛隊員もトレブリンカに配置されました。後述するクルト・フランツも
その一人です。
彼らは、いわばトレブリンカの「貴族」階級でした。
次にウクライナ人警備兵ですが、なぜナチスドイツの組織にウクライナ人がいる
のか、不思議に思う人もいるでしょう。彼らは、東部戦線でドイツの捕虜になった
ソ連兵だったのです。捕虜の中から志願者を募り、トラブニキなどの親衛隊訓練所
で訓練を受けさせた上で、収容所やゲットーに配備し「汚れ仕事」にあたらせたの
でした。ウクライナ人警備兵の中には、ユダヤ人に対して、ドイツ人以上に残虐な
振る舞いをする者が少なからずいました。ガス室の運転に従事する一方、ユダヤ人
の手足を生きながら切り刻むなどの蛮行を働いたとされる、「イワン雷帝」とアダ
ナされた警備兵も、その一人でした。
彼らは、しかしトレブリンカでは「奴隷」にすぎませんでした。まれに、ごくま
れに起きたユダヤ人の反抗の際など、親衛隊により、ウクライナ警備兵もユダヤ人
もろとも機銃掃射されました。
最後に、不定数のユダヤ人特殊部隊です。彼らは、たとえば次のような方法で選
ばれました。
ワルシャワ・ゲットーからの移送列車が到着し、ユダヤ人が下ろされる。まず、
男と、女子どもとの「選別」が行なわれる。女子どもは「目的地への列車に乗り換
える前にシャワーを浴びよ」と偽りの説明をなされ、裸にされてガス室へ送り込ま
れる。容赦なく鞭を振るうのはウクライナ人警備兵。
続いて男が「選別」される。肉体労働に適すると思われる者が選ばれ、それ以外
は殺される。さらに「体力テスト」で一定数に絞り込まれる場合もある。
そして、生き残った者がすなわち「ユダヤ人特殊部隊」。彼らの最初の仕事は、
自分の妻子らが残した衣服を片付け、妻子らの死体を運ぶこと。飛び交う鞭の雨の
中、この作業をキチンとこなせた者だけが、次の一日を生きることができた。
後には、肉体労働以外の「特技」によって生き残るユダヤ人もいました。そのこ
とについても後述しましょう。
彼らユダヤ人特殊部隊は、トレブリンカでは、いかなる「階級」に属する人間だ
ったのでしょうか。最初に家族肉親の虐殺処理に「協力」し、翌日以降は同胞の虐
殺作業に「協力」する・・・ただひたすら、自分自身の命と引き換えに。
家畜ならば、同族の死を意識することなく、その血肉による「餌」を食らって生
きることさえたやすかったでしょう。しかし、トレブリンカの彼らは、それでもな
お、まぎれもない「人間」だったのです。
#2052/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:21 ( 48)
トレブリンカ絶滅収容所(3) 三鷹板吉
★内容
$1787/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/21 16:26 ( 44)
トレブリンカ絶滅収容所(3) 三鷹板吉
★内容
トレブリンカ絶滅収容所の主な目的は、ポーランド各地からワルシャワ・ゲット
ーに集められていたユダヤ人を、皆殺しにするためでした。
当時のワルシャワ・ゲットーの状況はいかなるものだったでしょうか。わずか2.
5キロ四方の街区に40万人から60万人のユダヤ人が詰め込まれ、外界と隔離さ
れていました。脱出者は死をもって罰せられました。食料の供給も極端に制限され
ました。結果、餓死者が続出し、チフスなど疫病が蔓延しました。人間としての生
活に必要な最低条件を、はるかに下回る生活環境でした。働ける者は随時狩り出さ
れ、強制労働施設で酷使されました。
そのワルシャワ・ゲットーの人々に対し、ナチスはトレブリンカへの移送を募る
ため、実に美味しそうな毒餌を撒いたのです。「トレブリンカからは実り多い東方
入植地へと移送される」「移送希望者には特別に食料が配給される」などなど。
宣伝の片棒を担がされたのが、ワルシャワのユダヤ人評議会です。この組織は、
それ以前からナチによる労働者狩り出しや、ゲットー建設にも協力していました。
圧倒的な力を持つ支配者に対して、みずから協力することにより、多少の犠牲者を
出しつつも「ワルシャワのユダヤ人社会」を生き残らせることができる、あるいは、
みずからが生き残ることができると考えたからです。実際は、両方とも不可能だっ
たのですが。
ナチの宣伝に騙され、あるいは強制的に狩り出された人々は、ゲットーとアーリ
ア人地区(ゲットー以外のワルシャワ市街をこう呼んだ)の境界にあたるスタフキ
街の広場に設けられたウムシュラークプラッツ(集荷場)へと集められました。そ
こから移送列車に詰め込まれ、トレブリンカへの片道旅行へと旅立ったのです。
最初の移送が行なわれたのは、1942年7月22日。その後一か月で6万6千
人のユダヤ人がゲットーからトレブリンカへ移送され、その大多数が、到着次第、
ガス室で殺されました。
最初の移送が行なわれた翌日、ワルシャワのユダヤ評議会の議長であるアダム・
チェルニアコフは自殺しました。ゲットーを管理する親衛隊将校から、一日の移送
者数を倍にしろと要求されて、絶望した果ての決断でした。トレブリンカへの移送
が、希望に満ちた「東方入植地行き」などではないと知っていたからでしょう。
トレブリンカへの移送が始まる前から、ベルツェックなどの絶滅収容所で何が行
なわれているか、断片的な情報がゲットー内にまで伝わっていました。情報を伝え
たのは収容所からの脱走者です。ベルツェックやゾビボールの生き残り者は皆無に
等しいとされていますが、この時点では生存証言者がいたのです。
移送が始まってからは、トレブリンカそのものからの脱走者による情報も。彼ら
がゲットーに届けた証言についても、後述しましょう。
#2053/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:22 ( 46)
トレブリンカ絶滅収容所(4) 三鷹板吉
★内容
$1792/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/23 1:58 ( 41)
トレブリンカ絶滅収容所(4) 三鷹板吉
★内容
オープン直後のトレブリンカ絶滅収容所の運営実態は、しかし、後の「完璧さ」
とは、ほど遠いものでした。
設備も貧弱でした。ガス室はわずか3つ。ガス室以外のほとんどの建物は、間に
合わせの木造バラックでした。板に絵の具で描かれた「動かない時計」など、「東
方入植地への中継駅」に見せかけるための偽装がなされたのは、もっと後になって
からのことのようです。
1942年7月22日、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人の、トレブリンカへの
移送が開始されました。7月中に6万6千人(前回の「その後一か月で6万6千」
は「7月中に6万6千」の誤り)、8月にはワルシャワ以外からの移送も含めて、
20万人以上のユダヤ人がトレブリンカに送り込まれました。しかし、これは収容
所の「処理」能力を大幅に上回っていたのです
初代所長エーベルルの大失態でした。「ラインハルト作戦」の責任者、オディロ
・グロボクニクは、知らせを聞いてトレブリンカに視察に訪れました。8月の暑い
日のこと、線路わきなど、収容所のあちらこちらに死体の山が放置され、腐肉臭が
立ちのぼっていたそうです。グロボクニクは構内に足を踏み入れずに、エーベルル
を呼び出して叱責しました。
エーベルルはわずか2か月足らずで更迭され、収容所はいったん操業停止となり
ました。2代目所長として着任したのが、それまでゾビボール絶滅収容所の所長を
つとめていたフランツ・シュタングルです。彼もエーベルル同様、障害者の組織的
絶滅を目的としたT4作戦「出身」でした。
シュタングルによれば、エーベルルは移送者を処理しきれなかったばかりか「夜
には裸にした女のユダヤ人をテーブルにのせ、ダンスを踊らせていた」といいます。
マルキ・ド・サドの「ソドムの百二十日間」を思わせるエピソードです。
シュタングルは、ガス室への通路にバケツを設置するなどの「人間的」改善も行
ないました。多すぎる移送者の処理のため、ガス室はしばしばフル稼働状態となり、
順番を待つ移送者が排便を我慢できなくなったからです。
この頃、トレブリンカで最初の「反乱」事件が発生しました。
1942年8月26日に、キェルツェから移送されてきた若者が、母親に最期の
別れを言いたいとウクライナ人警備兵に申し出ました。警備兵に拒否されて、若者
は隠し持っていたナイフで警備兵を襲いました。たった一人の、ほんのささやかな
「反乱」でした。若者が警備兵襲うやいなや、機銃掃射が始まり、1列車分の移送
者がその場で殺されました。おそらくウクライナ人警備兵もろとも。
#2054/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:23 ( 41)
トレブリンカ絶滅収容所(5) 三鷹板吉
★内容
$1802/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/23 20: 9 ( 36)
トレブリンカ絶滅収容所(5) 三鷹板吉
★内容
1942年8月6日、ヤヌシュ・コルチャックが200人の孤児たちとともに、
ワルシャワ・ゲットーからトレブリンカへ移送されました。コルチャックは進歩的
な教育者として知られた人物で、最近では「子どもの権利条約」の元祖として話題
にされています。以下、新聞から略歴を紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<コルチャック先生> 本名はヘンルィク・ゴールドシュミット。一八七八年ワ
ルシャワに生まれた医者、作家、教育家。三十三歳の時、ユダヤ人孤児の施設をワ
ルシャワに設立、院長となる。ポーランドを占領したナチス・ドイツのユダヤ人ゲ
ットー移住計画により、一九四〇年、施設もゲットーへ。四二年八月、子供たち二
百人とともにトレブリンカ強制収容所に移送された。子どもの自治を重んじる教育
実践と著作がドイツでも知られていたコルチャック自身は助かる機会を与えられた
が、それを拒否、子供たちとともに死ぬ道を選んだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
三鷹は、彼の教育理念には賛成できない部分が多いのですが、その最期には胸を
衝かれるものがあります。
コルチャックの伝記は、子ども向けのものも含めて、多数出版されている他、映
画や演劇にもされています。昨年夏に日本の舞台で演じたのは加藤剛。彼は、上演
の前に、初夏のトレブリンカを訪問しています。
さて、1942年9月、フランツ・シュタングルを2代目所長として迎えたトレ
ブリンカ絶滅収容所に、新しいガス室が10室建設されました。新型ガス室を設計
・施工したのはエルヴィン・ラムベルトとローレンツ・ハッケンホルト。トレブリ
ンカの旧ガス室もラムベルトの設計によるものでした。建設は、ユダヤ人収容者自
身によって行なわれました。ガス室の扉は、ビャウィストクにあったロシア軍の掩
蔽壕の鋼鉄ドアを流用しました。
ガス室設計の専門家だったラムベルトも、T4作戦出身です。ラインハルト作戦
においては、彼自身、親衛隊下士官としてゾビボールで看守の任につき、犠牲者を
ガス室に追い立てていました。
従来のガス室と併せて、計13のガス室を備えたトレブリンカの「処理」能力は、
格段に向上しました。新型ガス室は、2時間で3千人を「処理」できました。トレ
ブリンカだけで、一日に最大1万人8千人ものユダヤ人を殺害したともいわれてい
ます。
#2055/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:25 ( 82)
トレブリンカ絶滅収容所(6) 三鷹板吉
★内容
$1808/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/24 13:31 ( 77)
トレブリンカ絶滅収容所(6) 三鷹板吉
★内容
トレブリンカへ移送されたユダヤ人たちが、どのように「処理」されたか、戦後
の裁判記録が簡潔に記しています。以下、「アウシュヴィッツの医師たち」(F・
K・カウル 三省堂)に記載されていた、「1965年9月3日のフランツ等の刑
事事件に対するデュッセルフドルフでの陪審裁判判決」から引用しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
車両が到着すると貨車用の門が開かれ、乗っていた者たちは荷物を持って直ちに
下車するよう声高に命令された。トレブリンカには主に東方での労働用に遠距離輸
送するための乗換駅があり、その場に到着した者の印象を強めるために、そのプラ
ットフォームやすぐ近くにはドイツ語やポーランド語でかかれた看板が出されてい
た。看板には次のように記されていた。
病気を予防するために着物と荷物を消毒に出しなさい。金、貨幣、外国為替、装
身具は盗難防止のために金庫に預けて受領書をもらいなさい。預けたものは、受領
書と引換にあとで受け取りなさい。
身体を清潔にするために、到着した者全員が乗換出発の前に入浴しなければなり
ません。
この他に、−−少なくとも大量殺人の初期には−−ドイツ人収容所職員の一部が、
停車場の入り口へ集まった人々に看板に何が書いてあるかを詳しく説明した。収容
所の職員は説明だけではなく、老人や病人や虚弱な人間や特定の理由からもはや行
軍不能な人々を、緊急時にはユダヤ人労働分遣隊のメンバーの援助も受けて、野戦
病院へ連れて行った。その際に野戦病院で医学的保護が与えられるであろうと語っ
た。
これらの説明を信用して輸送車が到着する毎に、多数の人々が野戦病院で治療を
受けたいと申請した。しかし彼らは野戦病院に到着するとすぐに衣服を全部脱がさ
れて、穴を長く掘り巡らせた土塁の前に並ばされるか、或いは穴の縁に立たされ、
野戦病院の看守に射殺された。
初めのころは騎銃か小銃による射殺であった。後には例外なくピストルによる頚
部射撃のみになった。この殺人方法はヴィルトによって定められた。彼はメンツ
(被告の一人)に個人的にこの方法を教示し、野戦病院の大半のユダヤ人をこの方
法で殺害させた。
土塁の前に並んで座らされた犠牲者たちは顔を穴に向けさせられ、自分の死の直
前まで、既に犠牲になった死体がどのように焼かれたり、死後膨張するかを直視し
なければならなかった。
野戦病院での射殺は一般にドイツ軍の下級指揮官によって実施された。だが、や
はりより大規模な企業が登場した。ウクライナ部隊が応援のために派遣されたので
ある。
この野蛮な殺人の手順には二つの目的があった。
一つは、いったん犠牲者に医師の手当を受けると信じ込ませ、彼らに、ここで治
療を受けられるという幻想をいっそう強く持たせることである。実際的には犠牲者
を仲間から切り放して移動させることが重要であった。
もう一つの目的は患者と虚弱者を選抜することによって、その他の人間も含む全
ユダヤ人に対する大量殺人という主目的をストレートに全面に出さず、摩擦なくス
タートさせることであった。
前期のように野戦病院で「特別処置」の対象になった者以外の犠牲者たちは、車
両から降りると、女性の脱衣室と小さな選別舎との間にある「乗換場」と称される
場所に連れて行かれた。この関係の任務にあたる看守の命令によって、女性と子供
は男性や青年から分離された。看守たちは大声をあげ殴り散らしながら指示を与え
た。必要なダメ押しとして発砲することも頻繁にあった。
まず最初のグループが脱衣室に押し込まれ、靴は労働囚人から手渡された細紐で
くくられた。同時に財産把握が始まった。全ての現金、金、宝石、また万年筆や眼
鏡や時計などの価値のあるものは、更にこの他にもいわゆる金持ちユダヤ人のもと
にある全ての有価物は、引き渡されなければならないのであり、あらゆる有価物を
情け容赦なく把握する権限が看守に与えられた。
脱衣が済み有価物の把握がすむと、女性たちは部屋のベッドの頭側のところのい
わゆる理容室に入れられた。そこで理容部隊の職員が彼女たちの頭を剃った。頭髪
は集められ、収容所内の全ての有価物と同じように、親衛隊経済・管理総局が自由
に処理して、もっと利益をあげるために利用した(絨毯を織るのも一例)。
理容室を通過すると女性たちは、水が冷たくなったので大至急で運転するという
指示を聞かされて、既述のシャワーに似せたガス管の下に集結した。そして最終的
抹殺の道へ向かったのである。
乗換場に残っていた男子たちは、待っている間にもう一つの選別を受けた。体力
のありそうな者と頑強そうな者は選び出されて、他の囚人の補充や追加的労働力と
して収容所の様々な囚人労働部隊に配属された。
当初はこうした選別は単に長生きのチャンスを意味したに過ぎなかったが、課せ
られた労働を遂行することは、次第に、むしろ死をもたらすようになった。後年に
なってやっと強制収容所指導部は、絶滅機構を摩擦なく回転させるには熟練した労
働部隊の存在が有益であり、看守の負担も軽くなることに気がついた。こうして強
制労働をさせられるユダヤ人に、少なくとも僅かの期間は生き長らえるという希望
が生まれた。
(この項つづく)
#2056/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:26 ( 56)
トレブリンカ絶滅収容所(7) 三鷹板吉
★内容
$1809/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/24 13:36 ( 51)
トレブリンカ絶滅収容所(7) 三鷹板吉
★内容
裁判記録の引用を続けましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
選別がすんでから、残った男と少年たちもガス管のついた部屋に送られた。そこ
には女性の脱衣室の端にある特別の通路を通って入らなければならなかった。
これから後は、犠牲者は男性と女性の区別にたいする配慮もなく扱われた。物を
考える時間を与えないために、また、万が一にも反乱を起こさせないために、ガス
室に配置された看守は、囚人を棍棒と鞭と銃把と拳とで打ちながらガス室へ追い立
てた。囚人は完全に裸のまま四ないし五列に並び、両手を挙げて走らされ、次々に
ガス室へ送られた。
ガス室の収容力は立錘の余地も無いほどに極限まで利用された。恒常的に殴られ
乱暴に扱われたので、多数の囚人は詰め込まれると、もはや身動きができないほど
衰弱した状態であった。乳児や小児はしばしば、ガス室に立っている大人の頭越し
に、無造作に投げ入れらた。
最終的には、もうこれ以上囚人を入れることが出来なくなると、扉が閉められ、
ドイツ人の隊長がモーター室に、例えば「イヴァン、水を出せ」と命じた。この場
合はモーター室でウクライナ人が使われている例である。
この命に従ってモーターのスイッチが入れられ、ガスが部屋に導入された。殺害
自体の所要時間は三〇分から四〇分であった。それからモーターが止められ、室内
にまだ生存者がいるかどうかを確認するために扉に耳をあてて様子を聞き取った。
生存者がいなければ外壁に取り付けられたハネ蓋を開けるように命令され、死体の
運搬がはじまる。
時おり、ガスが止められた後にも、一、二の犠牲者が生きていることがあったの
で、死体の積み込み場や墓地に向かう別の地点で、例えば、焼却炉の鉄格子のとこ
ろで、ドイツ人看守隊の指導者やウクライナ部隊のメンバーが、生存者を抹殺した。
ガス室が満杯のために取り残された者は、死体を入れる穴のそばで直接に銃殺さ
れた。このような例外的犠牲者の数は問題にならないほど少数だったので、新たに
ガス室を作るというようなことはなされなかった。
いわゆる清掃部隊がガス室を整理・清掃している間は、次の犠牲者たちはガス室
から五〇−六〇メートル離れた地点で一列に並んで待機させられた。建物自体は古
いガス棟にいる者からは門が邪魔をして見えなかったし、新しいガス室にいる場合
は黒いカーテンによって見えなくされた。ガス室で殺人が行われている間に次の犠
牲者たちは入り口の前に移動させられた。
彼らには、ガス室にいる人々の恐怖の叫びと悲しみの泣き声が聞えたし、彼らの
上に直ちにふりかかる運命をもはや疑うことはできなかったので、入室を待つとい
うこの時間はとりわけ苦悩に満ちたものであった。少なくともガス室に入った瞬間
に苦悩に襲われることが多かったが、モーターが故障して再開までの間にかなりの
時間がある場合には苦悩も頂点に達した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
これが、トレブリンカのガス室による、ユダヤ人80万人虐殺の実態です。
アウシュビッツ収容所の所長で、チクロンBを使ったガス室を作ったルドルフ・
ヘスは、自分の方法の方がずっと効率が良く、犠牲者の苦しみも少なくてすむと自
負していました。エンジン排気中の一酸化炭素や窒素酸化物を使ったトレブリンカ
のガス室とは違い、チクロンBから発生する青酸ガスを使ったアウシュビッツのガ
ス室は、千単位のユダヤ人を一度に殺すことができましたし、エンジン故障のよう
な残酷なトラブルとも無縁でした。チクロンBは常に外気に触れると同時に青酸ガ
スを発生させ、ガス室内のユダヤ人たちを、すみやかに「安楽死」させたのですか
ら。
#2057/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:27 ( 46)
トレブリンカ絶滅収容所(8) 三鷹板吉
★内容
$1826/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/28 12:53 ( 41)
トレブリンカ絶滅収容所(8) 三鷹板吉
★内容
1942年9月11日、トレブリンカで第2の反乱事件が起きました。抵抗した
のは、ブエノス・アイレスから来たユダヤ人青年メイル・ベルリナー。彼は、両親
に会うためにポーランドを訪れていたのですが、ワルシャワ滞在中に戦争が勃発し
て帰国できなくなり、続いてゲットーに閉じ込められました。そして9月の移送で、
トレブリンカに送られてきたのでした。ベルリナーは、ガス室へ送り込まれるユダ
ヤ人の群れの中から「選別」され、特別部隊に編入されて、同胞の虐殺作業に使役
されました。
彼の反乱もまた、ほんのささやかなものでした。彼は、ユダヤ人特別部隊の整列
点呼の際に、隙をみて、隠し持ったナイフで一人の親衛隊将校を刺殺したのです。
その直後、ベルリナーは警備兵に囲まれ、銃尻で撲殺されました。
収容所側も混乱したのでしょう。周囲のバラックの屋上に据えられた機銃が地上
の人々に向けて火を吹き、逃げまどうユダヤ人、ウクライナ人警備兵、親衛隊員ま
で入り乱れての大混乱になりました。
このパニックを鎮静させた親衛隊下士官が、クルト・フランツです。後に将校に
昇進し、トレブリンカの支配者となる人物です。
クルト・フランツは、約1年後の43年8月にトレブリンカ絶滅収容所の第3代
所長に就任しますが、そのずっと以前からトレブリンカの実質的な支配者でした。
フランツは、ベルジェッツで警備班としての任務をつとめ、ユダヤ人迫害という
「戦闘」経験を十分に積んだ後、トレブリンカへ転任してきました。文字どおり叩
き上げのナチス親衛隊員です。初代所長エーベルルや2代所長シュタングルのよう
な、医師の白衣を黒シャツに着替えさせられたインスタント親衛隊員とは「格」が
違ったのでしょう。トレブリンカの名目上のトップはシュタングルでしたが、現場
を仕切っているのはフランツでした。
そのクルト・フランツにしても、ユダヤ人の死体を取り扱うのは、けして楽しい
仕事ではありませんでした。ラインハルト作戦の現場責任者だったクリスチャン・
ヴィルトは、部下たちにさまざまな「実験」をやらせました。地面に掘った穴の中
にユダヤ人の死体を実際に並べてみる、というのも「実験」の一つでした。それに
よって、予定された移送者数に対して、どの程度の大きさの穴を掘ればよいのか知
ろうとしたわけです。汚れ仕事を嫌うフランツを、ヴィルトは鞭で殴りつけた、と
いわれます。
後には、フランツの指揮の下、一度地面に埋められたユダヤ人の死体を、掘り起
こして焼却するための「実験」も行なわれました。試行錯誤の結果、コンクリート
柱と鉄道レールで作られた「火刑台」と呼ばれる、巨大なバーベキューグリルのよ
うな台を作り、燃えやすい死体を下に、燃えにくい死体は上にして台に乗せ、薪を
点火源として燃やす方法が最も効率的な方法として採用されました。
#2058/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:29 ( 75)
トレブリンカ絶滅収容所(9) 三鷹板吉
★内容
$1833/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/30 19:35 ( 71)
トレブリンカ絶滅収容所(9) 三鷹板吉
★内容
トレブリンカなどの収容所は、単なる労働収容所でも「東方入植地」への中継地
でもなく、そこに送り込まれたユダヤ人を数万、数十万単位で組織的に虐殺するこ
とを目的に建設された死の収容所=絶滅収容所に他ならないという情報は、ワルシ
ャワ・ゲットーに残っているユダヤ人にも、もたらされました。
そのことを記録する当時の文書が残っています。その一つ、エマヌエル・リンゲ
ルブルムの日記から紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(1942年6月)
もう一つ力説された重要事は、ユダヤ人絶滅計画のことをドイツ国民に知らせね
ばならないということだった。というのも、H(ヒットラー)はユダヤ人を殲滅す
ると幾度か公約はしたが、いまではユダヤ人が現にどういう目にあっているかをド
イツ人に気づかせないようにあらゆる手を打っているからだ。最初のうちは、何千
ものユダヤ人が町のまん中や、町のすぐ外で射殺されたが、最近ではやつらはつぎ
のような計画に従ってやっている。十歳までの子供と六十歳以上の老人という「非
生産的分子」を密閉した鉄道貨車に閉じこめ、特務班のドイツ兵に護衛させて、目
的地を知らせずに輸送する。通常、輸送はベウジェツに向かうが、そこで「再定住」
させられたユダヤ人は跡かたもなく消え失せる。ベウジェツの死の収容所からの逃
亡に成功した者はこれまで一人もなく、ベウジェツにおける殲滅作戦を目撃したユ
ダヤ人やポーランド人で生き残った者はこれまで一人もいないという事実は、やつ
らが自国民にニュースを知られないようどれほど気を配っているかを、このうえな
く明白に示している。そしてそのことは、もしドイツ民衆に知られたら、やつらは
おそらく大量殺人を遂行しえないだろうということを立証している。
(「ワルシャワ・ゲットー」(E・リンゲルブルム みすず書房)(P236)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここで記述されているのは、アインザッツグルッペンによる大量射殺と、トレブ
リンカに先立って3月にオープンしたベルツェック絶滅収容所に関する情報です。
また、なぜ自分たちが記録を残そうとするのか、という理由についても、明白に述
べられています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(42年6月)
ユダヤ人の子供と老人の組織的殲滅計画が実施されていることを伝える新しい報
告が絶えずはいってくる。地方で起こっていたのと同じことが、いまビャーワ・ポ
ドラスカでやられていて、そこでは十歳以下の子供と六十歳以上の老人を積んだ六
〇台の貨車がいずこへともなく消えてしまった。明らかにこれは収容所送りではな
く、幼少者と老人の殲滅である。ドイツの目的にかなう労働ができないユダヤ人は
不要だから、まっ先にみな殺しにされるのだ。
(P237)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「希望」もありました。「外部」への情報伝達です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(42年6月)
今日、6月26日金曜日はO・S(三鷹注)にとって大いなる日だった。今朝、
イギリスのラジオがポーランド・ユダヤ人の運命について放送をしたのだ。彼らは
われわれのよく知っているすべてのこと、スウォニムとヴィルノ、リヴォフとヘウ
ムノ等々についてすべてのことを語った。
(中略)
この二、三週間イギリスのラジオは、ベウジェツその他でのポーランド・ユダヤ
人に対する残虐行為について定期的にに放送を流してきた。今日の放送は状況の総
括で、ポーランドで殺されたユダヤ人の数70万と述べていた。同時に、放送は復
讐を誓い、これら暴力行為のすべてに対して最終的に償いをさせることを誓った。
O・Sのグループは大きな歴史的使命を果たした。警鐘を鳴らして世界の耳目を
われわれの運命に向けさせたのだ。それによってあるいは何十万のポーランド・ユ
ダヤ人が絶滅から救われるかもしれない(これがほんとうかどうかがわかるのは、
もちろんもう少し先になってからだろうが)。
(P239)
(三鷹注:「オネグ・シャバット」の略。ゲットーのユダヤ人による記録保存組織。
42年はじめからユダヤ人虐殺に関する報告書を国外に送り続けていた)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
しかし、ポーランドのユダヤ人を救出するには、イギリスなど連合国のアクショ
ンはあまりに遅すぎました。リンゲルブルム自身の運命がそれを物語ります。
(この項つづく)
#2059/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:30 ( 60)
トレブリンカ絶滅収容所(10) 三鷹板吉
★内容
$1834/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/30 19:37 ( 55)
トレブリンカ絶滅収容所(10) 三鷹板吉
★内容
いよいよワルシャワ・ゲットーからトレブリンカへの移送が始まった1942年
7月以降、リンゲルブルム日記の文章も非常な緊迫感に満ちたものに変わります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(42年7−12月)
トレブリンカ−−墓掘り人についてのニュース(ラビノヴィッチ、ヤーコプ)
(注1)、貨車から脱走したストックのユダヤ人……金と外国通貨をたずさえてき
た−−みな異口同音に「入浴」の話、膝に黄色い当て布をつけたユダヤ人墓掘り人
の話を伝える。−−殺害方法は、ガス、蒸気、電気。
移送者の家族が派遣した調査者たちが、トレブリンカについてのニュースを持ち
帰った。(注2)−−トラクターの話。一説では、トラクターが焼かれたユダヤ人
の灰を土に鋤き込んでいるという。もう一説では、トラクターが溝を掘り、そこに
死体を埋めて(土をかぶせている)。
トレブリンカ、ユダヤ民衆の目に明らかになってきた−−彼らは最近の大量殺戮
を知るにいたった。
西ヨーロッパから来たユダヤ人はトレブリンカが何であるかをまったく知らない。
それは労働入植地だと信じていて、貨物列車の中で、トレブリンカの「工業中心地」
まであとどのくらいかなどと訊く。自分たちが殺されに行くことをもし知っていた
なら、彼らはきっと何らかの抵抗を示しただろう。彼らは真新しい旅行鞄をもって
いる。
注1:トレブリンカから脱走して情報をもってきた人物。
注2:1942年7月、ジグムント(・フリードリック)がトレブリンカについて
のニュースの真偽を確かめに派遣された。彼はマルキニアまで行ったとき、トレブ
リンカを脱走してきたエスラエル・ヴァラッハに会い、彼によって最悪の報告が事
実だったことが確認された。
(P258)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
トレブリンカの証言者の、その具体的な名前もいくつか出てきます。
フリードリックは金髪で「アーリア人」的風貌だったので、この危険な任務に選
ばれました。彼はゲットーを抜け出してソロコフへ行き、新しい鉄道の支線がトレ
ブリンカへ通じていることを知りました。
トレブリンカのユダヤ人特別部隊(虐殺作業を手助けする)から脱走してきたヴ
ァラッハは、移送されたユダヤ人は裸にされ、ガス室に送りこまれて殺された、と
フリードリックに語りました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(42年7−12月)
もう一つ、ドイツ人をして一握りのユダヤ人を暫時ワルシャワに残させた要因が
ある。世界の世論だ。やつらは数百万ユダヤ人の虐殺をまだ公然とは認めていない。
4万人のルブリン・ユダヤ人が殺されたとき、ワルシャワの新聞はニュース記事を
載せて、ユダヤ人はマイダン(三鷹注:マイダネク絶滅収容所)でどんなにいい生
活を送っているか、密輸者や盗品故買人がいかに見事に「生産的分子」に更正させ
られてマイダンで立派に暮しているか、と書きたてた。
同じことはワルシャワについても言える。やつらはワルシャワの全ユダヤ人を殺
してしまったと世界に対して認めたくないので、一握りの者だけ残しておいて、十
二時が打ったときに殺そうというのだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここで記述されているのは、ユダヤ人絶滅作戦を偽装するための、ナチスによる
情報操作です。絶滅作戦が存在することなど信じたくない人間たちの最右翼−−当
の、絶滅対象のユダヤ人によってさえ、すでにその偽瞞が見抜かれていたというこ
とに注目しておきたいと思います。
#2060/3243 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:32 ( 66)
トレブリンカ絶滅収容所(11) 三鷹板吉
★内容
$1841/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/31 14:27 ( 61)
トレブリンカ絶滅収容所(11) 三鷹板吉
★内容
ワルシャワ・ゲットーの記録者をもう一人。アブラハム・レビンの日記も紹介し
ましょう。まず、トレブリンカへの移送が始まった当日の記録です。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1942年7月22日 水曜日−−ティシュベアブ前日
混乱、恐怖、カオスの日なり。ユダヤ人追放のニュースが電光のようにゲットー
をかけめぐった。ユダヤのワルシャワは突如として死んだ。店はばたばたと閉まり、
ユダヤ人達があわてふためき、顔をひきつらせて走りまわっている。ユダヤ人街は
ぞっとするような光景である−−陰惨な空気はペンではとても表現できない。路上
のあちこちに死体がころがっている。恐るべき破局に直面して、死体を数える人も
いない。何処の誰だか判らない。追放は今日から始まる予定である。まず、施設に
収容されているホームレスと刑務所の囚人から移送される。病院の撤去という話も
ある。乞食の子供達が目下狩りこみにあい、馬車に詰めこまれている。私は年老い
た母のことを考えている−−この殺人鬼どもに引き渡すより、安らかに眠らせる方
がいいのではなかろうか。
「涙の杯」(A・レビン 影書房)(P196)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
これが希望あふれる「東方入植地」への旅立ちの日でしょうか? その日の食べ
物さえ事欠くゲットーに閉じ込められてひさしいユダヤ人たちが、なおかつ「死」
をもってまでして抵抗する「移送」の行き先が、トレブリンカだったのです。
レビンは、しかし、移送すなわち死という以外の、希望につながる噂をも集めて
います。移送された人々からの手紙です。日付とともに抜粋して紹介しましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
7月30日 木曜日
ビアリストクから一通の手紙が舞いこむ。或る女性が夫に書いたもので、ポーラ
ンド人警官が届けてくれたのだ。自分の息子は数家族と一緒で、畑で働かされてい
る。仕事は大変きついが食糧の支給があるとか。
8月4日 火曜日
バラノビッツェから手紙。農業労働者として働いているという。下着を送ってほ
しいとか。生活費は安い。白パン7ズローチ、じゃがいも1.80なり。下着を送
って貰えると助かるけど、と彼女は書いている。手紙は郵便局から届いた。
8月16日 日曜日
移送された人から手紙が届いたという噂もある。シエドルツェ地方で働いていて、
状況はそれほど悪くないという。リフシッツの息子(小学校時代からの友人)が、
自分の娘も或る老人夫婦から来た手紙のひとつを読んだ、と私に言った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
残念ながら、これらの手紙のほとんどは偽造されたものでした。ユダヤ人の手に
なる「本物」もごく少数あったかもしれませんが、それも事実無根でした。手紙が
伝える「東方入植地」など、実際には存在しなかったのです。
ナチスはこうした手紙を偽造し、時にはユダヤ人の協力者を使って書かせ、さら
に手紙が届いたと言う噂を意図的に広めて、トレブリンカへの移送を促進しようと
したのでした。
ポーランド人による偽装もあったようです。この手の話でゲットーの住民をだま
し、すでに虐殺されている家族親族宛てに金品を送らせ、横領するという手口です。
レビン自身、こうした事情をよく知っていました。
なのに、50年以上も経った後の、日本の否定者が「トレブリンカは絶滅収容所
などではなかった。入植地からのユダヤ人の手紙がその証拠だ」と主張する・・・
「現場」にいた人間がイカサマだと見破った手紙を、なぜ信じるに足るものと言え
るのでしょうか。三鷹には不思議でなりません。
(この項つづく)
#2061/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:33 ( 73)
トレブリンカ絶滅収容所(12) 三鷹板吉
★内容
$1842/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 5/31 14:29 ( 68)
トレブリンカ絶滅収容所(12) 三鷹板吉
★内容
レビン日記からの抜粋紹介を続けましょう。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1942年8月6日 木曜日
Pが、トレブリンカ(抹殺場か?)行きの列車とその本数に関する指示書を見た。
飢餓が生き残りをますます苦しめる。パン1キロ−45ズローチ、じゃがいも1キ
ロ−15ズローチ。今日連中は小ゲットーから5000人ほどのユダヤ人を連れ去
った。
8月7日 金曜日
新しい布告が出た。8月7日から14日まで移送を志願して出頭する者には、パ
ン1キロとジャム500グラムを支給するという。この布告から、「アクチオン」
(三鷹注:ユダヤ人の狩りこみとトレブリンカへの移送)が少なくともあと1週間
は続くことが判る。ストゥプニツキは既に移送された。オトボツクから3000人
が直接ウムシュラグプラッツ(三鷹注:ゲットー内の「集荷場」)へ運ばれて来た。
厖大な数の人が犠牲になった。マルキニアとソコウフ近くに設けられた焼却炉(三
鷹注:トレブリンカ絶滅収容所)で処理される。
8月9日 日曜日
「アクチオン」第19日目。人間の歴史がこれまでみたことのない行為はまだ続
く。昨日から追放はポグロム(三鷹注:ユダヤ人虐殺)の様相を帯びてきた。単な
る虐殺である。連中は通りを徘徊し、手当たり次第に通行人を撃ち殺す。今日、手
押車がむきだしの死体を山と積んで市中を通った。その手押車がまた蜒蜒と通りに
つながっている。
今日我々が経験していることに比べると、私の読んだ1918−19年の出来事
など、顔色なしである。我々には、移送された人の99%は抹殺されているのが判
っている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そして、トレブリンカの証言者に関する記述が登場します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
8月11日 火曜日
スモラーがソコウフに連絡した。トレ……に移送されるものは、つまりそこへ送
られれば、殺されるという話だったそうである。Kがもたらしたニュースである。
ワルシャワに、スラバという名のユダヤ人がいる。トレブリンカの状況報告を持ち
帰った人である。トレブリンカ駅の15キロ手前で、ドイツ兵が列車を統制する。
列車から降りるとムチを浴びながら、大きな建物へ誘導される。そこから胸をつく
ような叫びと悲鳴が響いている。5分ほどたつと静かになる。引き出される死体は、
恐ろしくふくれあがっている。余りに膨張して胴体など両腕をまわしても届かない
という。死体を投げこむ溝掘りは若者がやらされている。翌日には彼等も殺される。
恐ろしい。
8月28日 金曜日
今日我々はダビッド・ノボドボルスキと長い間話し合った。トレブリンカから戻
った人である。彼は、抹殺キャンプからの脱出経緯を含め、捕まってからワルシャ
ワへ戻るまでの一部始終を詳しく話した。狩りこみにあった人、自ら志願した人の
いかんを問わず、移送された人がすべて抹殺されている事実が、彼の話ではっきり
確認された。もう疑う余地はない。ワルシャワのほかラドム、シエドルツェその他
多数の町からユダヤ人が移送され、先週まで少なくとも30万人が抹殺されたのだ。
恐ろしい。あまりの物凄さに、表現すべき言葉がない。史上最大の犯罪行為である
ことは間違いない。
(中略)
神よ、我々は本当に最後の一人になるまで抹殺されるのですか。
ワルシャワから移送された人は全員殺された。今や一点の疑いもない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
一族同胞が虐殺されている「現場」のすぐ近くにいる、数日後、数週間後の極近
未来の被虐殺者たちが「一点の疑いもない」と、悲痛な思いとともに、現在進行形
で綴る事実です。その事実を、50年後の日本の否定者が「証拠がない。証言は信
用できない」と一言で否定する。何も知らないギャラリーが「なるほど、御説ごも
っとも」とうなずく。
これが、このボードで、この1年間行なわれてきた茶番です。
#2062/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:35 ( 90)
トレブリンカ絶滅収容所(13) 三鷹板吉
★内容
$1933/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 6/12 11:33 ( 85)
トレブリンカ絶滅収容所(13) 三鷹板吉
★内容
トレブリンカは「ユダヤ人の絶滅」を目的とした収容所でしたが、その機構を動
かす労働力の大部分は、ユダヤ人によるものでした。移送者から選別されたユダヤ
人によって編成され、同胞の虐殺作業に従事させられた「特別部隊」です。
これは、ガス室否定者(ホロコースト否定者)により、曲解され悪用される可能
性の高い事実です。「ユダヤ人絶滅施設だというのに、そこで殺されなかったばか
りか、運営に協力したユダヤ人がいたというのはおかしい」というリクツですね。
ユダヤ人自身によりユダヤ人の組織的虐殺を手助けさせる、トレブリンカの機構
について、以下、概説しましょう。
「特別部隊」の大部分は、ユダヤ人を載せた移送列車が到着するプラットホーム
と、ガス室との間に建てられたバラックに常駐させられていました。彼らは「広場
のユダヤ人」と呼ばれました。
列車が到着すると、「青の特務班(腕章の色による)」と呼ばれるチームが、移
送者を下車させ、彼らの荷物を集め、列車を清掃します。荷物は「広場」へ運ばれ
ます。「赤の特務班」と呼ばれる別チームが、移送者の脱衣を助け、彼らの衣服を
「広場」に運びます。
「広場」に集められた荷物や衣服を選別するチームもいました。トレブリンカへ
の移送者は、運べる限りの「財産」を持ち込みましたから、品物も多種多様でした。
品物数と同数の選別班が編成されました。
その中でも貴金属や有価証券類を扱うチームは、別格として「黄金ユダヤ人」と
呼ばれていました。彼らは、移送されたユダヤ人から金、貨幣、有価証券、宝石な
どを受け取り、整理分別しました。ガス室で殺された死体から得られた貴金属類−
−金歯や体内に隠された宝石など−−も、彼らの管轄でした。
「広場のユダヤ人」の中から、収容所の施設を建設運営するための労働チームも
随時編成されました。木材伐採班、建設班、汚物処理班など。森で木の枝を伐採し、
有刺鉄線をカモフラージュする作業班もあれば、プラットホームを「東方入植地へ
の中継駅」に偽装するための工作班もありました。
最も陰惨な任務につかされたのが、ガス室での労働に従事させられたチームです。
ガス室から死体を搬出し、金歯等を抜き取り、肛門や膣内など体内に隠された貴金
属類を探した後、壕や焼却炉へと運ぶ班。彼らは「死のユダヤ人」と呼ばれ、他の
「特別部隊」から隔離され、収容所内の収容所とでも言うべき特別なブロックに住
まわされていました。
死体運びは相当の重労働であり、過労や極度のストレスによる死亡率も、他のチ
ームよりずっと高かったようです。「広場のユダヤ人」のメンバーを懲罰するため
に「死のユダヤ人」に配置換えするケースが多く、一度ここに異動させられたら最
後、生きて戻ってくる者はいない、と恐れられていました。
「宮廷ユダヤ人」と呼ばれた特別なユダヤ人もいました。彼らは、トレブリンカ
のオープン以前に連れてこられた最初のユダヤ人で、その任務は、収容所の維持と
SSの身の回りの世話でした。彼らは「広場のユダヤ人」とも「死のユダヤ人」と
も離れたバラックに住まわされました。この仇名は、中世の宮廷制度に由来します。
同じユダヤ人でありながら、ゲットーに隔離された同胞とは異なり、宮廷に直接仕
えて、貴族待遇を受けたユダヤ人階級。トレブリンカにおいては、彼ら「宮廷ユダ
ヤ人」たちの中には、自分自身の行く末はもちろん、自分がユダヤ人であるという
厳然たる事実からさえ目をそむけて、その日その日を生き延びる人間もいたようで
す。
「宮廷ユダヤ人」のような特殊な例を別にしても、トレブリンカのユダヤ人「特
別部隊」のメンバー、特にリーダー層と、SSをはじめとするドイツ人との間には、
一種独特の「共犯関係」が成立していました。
ユダヤ人側としては、最初は、自分自身の生命を救うための「緊急避難」的協力
だったでしょう。しかし、それが何度も何度も繰り返されるに至って、自分がその
虐殺に手を貸した大量のユダヤ人の生命と、自分自身の生命との間に、バランスを
とる必要が生まれてきます。
大量の同胞の生命と自分一人の生命とのバランスとり。これは非常に困難な心理
的作業です。自殺が一つの選択枝です。死んでしまえば、これ以上虐殺に協力させ
られることはありません。もう一つの選択枝が、生き延びて、チャンスを伺って脱
走し、絶滅収容所の実態を世界に知らしめること。その「明日」のために「今日」
をナチスに積極的に協力する。これが、彼らが選んだ道でした。
他方のドイツ人側にも、屈折した心理状況が発生していました。いかに「害虫に
等しいユダヤ人」だとしても、無抵抗の民衆の大量虐殺が、心楽しませる仕事であ
ろうはずがありません。その困難な仕事に積極的に協力し、自分たちが手を出しか
ねる汚れ仕事をも喜んでやってくれるユダヤ人「特別部隊」のメンバーに対して、
優秀な家畜に対するがごときカッコつきの「愛情」を抱くにいたる場合もあったで
しょう。「ユダヤ人絶滅」が終了する最後の日には、こいつも殺さなければならな
いが(辛い話だがしかたがない)、それまでは「仲良く」やっていこうぜ、と。
「特別部隊」の中には、移送者の中から選ばれた女性との「結婚」を許された者
もいました。トレブリンカの後期においては、「特別部隊」も含めて、収容所管理
者たちの慰安のための祝祭も、定期的に開かれたそうです。
「ヘルシンキ症侯群」でしたっけ、ハイジャック犯と人質との間に発生する、奇
妙な友愛関係を論じた心理学研究があるそうです。トレブリンカにおけるドイツ人
SSとユダヤ人「特別部隊」との関係も、きわめて特殊な状況におかれた人間集団
における特異な行動例として、心理学の研究テーマとなるかもしれません。
しかし、その奇妙な関係も、「反乱」により終結することになります。
#2063/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:37 ( 65)
トレブリンカ絶滅収容所(14) 三鷹板吉
★内容
$1948/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 6/13 14:49 ( 60)
トレブリンカ絶滅収容所(14) 三鷹板吉
★内容
1943年の初めには、ポーランド系ユダヤ人のトレブリンカへの移送は8、9
割がた終了していました。グロドノとビアウィストクからの移送があった他は、3
月までトレブリンカでは「無風状態」が続きました。その間、収容者すなわちユダ
ヤ人「特別部隊」は、食料供給の不足による慢性的な飢餓と、発疹チフスの流行に
苦しめられていました。
トレブリンカ駅には「東方入植地」への中継駅としての偽装がほどこされ、ガス
室へ向かう通り沿いには、偽物の店なども建設されていましたが、この頃、すでに
トレブリンカに関する情報は、不完全なものながら、ポーランド各地のゲットーに
まで伝わっていました。「ガス、蒸気、電気」による大量虐殺、トラクターによっ
て地面に鋤込まれるユダヤ人の骨灰、あそこへ送られたユダヤ人は絶対に帰ってこ
ない、などなど。
その比較的小規模の移送の際に、第3、第4の反乱が発生しました。
1943年2月。夜遅く、グロドノからトレブリンカへ到着した移送列車のユダ
ヤ人1000人は、トレブリンカが絶滅収容所であることをすでに知っていました。
彼らは、フェンスの材木やナイフ、剃刀といったありあわせの武器で、ウクライナ
人警備兵に立ち向かいました。戦いは数時間続きました。夜が明けると、ユダヤ人
たちはもちろんウクライナ人警備兵も、全員が雪を血で染めて死んでいました。親
衛隊が機銃を無差別に撃ち込み、手榴弾を投げて皆殺しに殺したのです。
また、ビアウィストクのゲットーでは、シオニスト青年組織のメンバーがトレブ
リンカへの移送に抵抗し、親衛隊員8人を殺しました。グループは逮捕され移送さ
れたのですが、トレブリンカ到着後、隠し持っていたピストル1、2丁でウクライ
ナ人警備兵を襲いました。これもしかし、ささやかな反抗に終わり、青年たちはむ
なしく殺されてしまいました。
一方、ワルシャワ・ゲットーでも、ついに反乱が発生します。
1943年1月18日。モルデハイ・アニエレヴィッツ率いるワルシャワのユダ
ヤ人地下組織がトレブリンカへの移送に抵抗し、市街戦を展開しました。4日間で
ユダヤ人600人が移送され、1000人が路上で殺されましたが、移送は一時中
断されました。地下組織は移送再開阻止を目的として、戦闘準備をすすめました。
4月19日。ドイツ軍は戦車と砲の支援のもと、ゲットーへ突入しました。ユダ
ヤ人は乏しい武器で果敢に戦い、一時はドイツ軍を撃退しました。しかし、体勢を
立て直したドイツ軍は、数時間後にゲットーに再突入し、建物を一つずつ焼き打ち
するという作戦をとりました。ドイツ兵は建物に発煙弾や手榴弾を投げ込み、煙に
まかれたり火傷を負ったりして、壕や下水道からはい出てくるユダヤ人を射殺しま
した。
1943年5月8日。ドイツ軍はついにユダヤ人地下組織の司令壕に達し、リー
ダーのアニエレヴィッツをはじめ、100人以上を殺しました。その1週間後、ド
イツ軍指揮官であるシュトロープ親衛隊少将は「完全殲滅。ワルシャワ・ゲットー
はすでに存在しない」と報告しました。
この反乱で、5万6千人以上のユダヤ人が焼き殺され、射殺され、トレブリンカ
に移送されてガス室で虐殺されました。1万5千人ほどは、混乱に乗じてゲットー
を脱出してアーリア人地区へ逃げ込み、ポーランド人にかくまわれました。リンゲ
ルブルムもその一人です。シュムエル・ケーニッヒスバイン指揮下の1000人の
ユダヤ人部隊のように、44年8月のワルシャワ蜂起に参加して、再度ドイツ軍と
戦った人々も含まれます。
ビアウィストクでもワルシャワでも、反乱の生き残りはトレブリンカへ移送され
ました。この一点をとりあげても、トレブリンカがまぎれもない処刑施設、絶滅収
容所であったということが良く分かります。「反乱の生き残りは、その勇敢さを讃
えて、実り豊かな東方入植地送りとする」というような、寛大きわまりない措置を
ナチスがとったとでも考えない限り。
#2064/**** 「平和の森」博物館
★タイトル (QYA33902) 96/ 9/ 9 9:39 ( 75)
トレブリンカ絶滅収容所(15) 三鷹板吉
★内容
$2025/**** 落丁&乱丁
★タイトル (QYA33902) 96/ 6/17 15:57 ( 70)
トレブリンカ絶滅収容所(15) 三鷹板吉
★内容
トレブリンカ絶滅収容所の歴史にも、いよいよ終章が訪れます。
1943年8月2日、トレブリンカのユダヤ人「特別部隊」が、ついに反乱を起
こしました。反乱の準備は前年からなされていました。1月時点ですでに綿密な計
画もできあがったそうです。
生存証言者の一人であるリヒァルト・グラツールによれば、テッサロニキからの
列車による、バルカン半島のユダヤ人の移送が、「特別部隊」を反乱に踏み切らせ
たキッカケの一つだったそうです。ナチスの手に捕らわれて間も無いバルカンのユ
ダヤ人2万4千人は、皆、健康で力にあふれていました。反乱の戦士としてうって
つけだったのですが、グラツールたちが彼らに自らの運命をさとらせ、立ち上がら
せる間もなく、むなしくガス室で殺されてしまいました。他ならぬ「特別部隊」が
この反乱戦士候補者たちの虐殺に手を貸してしまったのです。
埋葬死体の発掘焼却作業が終わりに近づいていたのが、反乱を決意させた最大の
理由でした。トレブリンカへの移送作業が終了し、ガス殺された人間の死体処理が
すべて終了すれば、「特別部隊」を生かしておく理由は無くなります。
反乱の準備は、武器の調達から始まりました。「黄金ユダヤ人」が集めた貴金属
の一部を使ってウクライナ人警備兵を買収し、小銃や手榴弾などが調達されました。
親衛隊の武器庫の合鍵が作られました。反乱は同時に起こさなければ効果がないた
め、他の「特別部隊」から隔離された「死のユダヤ人」の元にも伝令が送られまし
た。わざとミスを犯し懲罰を受けることにより、ガス室回りの死の作業場に異動さ
せられたのです。
反乱がどれだけうまくいったのか、評価は難しいと思います。とにかく、結果的
には八百人ほどのユダヤ人が蜂起に加わり、手近のウクライナ人警備兵や親衛隊員
を殺して彼らの武器を奪い、ガス室やバラックに放火しました。機銃や装甲車に追
われながら収容所から脱走し、地雷原を越えて森に辿りついたのは、数百人だった、
と伝えられています。親衛隊とウクライナ人警備兵の死傷者は、三十人ほどでした。
収容所に残されたユダヤ人は100人ほどでした。ナチスは、この反乱を契機に、
トレブリンカ絶滅収容所の閉鎖を決定しました。100人は、収容所の取り壊し作
業に従事させられ、その後、射殺されました。
この作業の際にも、脱走者がありました。43年9月2日、ユダヤ人13人がバ
ールを使ってウクライナ人警備兵に襲いかかりました。リーダーのセベリン・クラ
インマンは、警備兵の服を着込み、仲間たちを連行するふりをして検問所を通過、
脱走に成功しました。
1943年11月の時点で、収容所は完全に撤去されていました。収容所跡地に
は新たに土が敷かれ、カモフラージュのための植樹が行なわれました。小屋が建て
られ、ウクライナ人警備兵には、そこに住み、収容所跡地を農場として運営するよ
う、指令が下りました。
「死の沈黙」という写真集には、戦後撮影されたトレブリンカの風景がおさめら
れています。周囲の森を切り拓いて作られたとおぼしき空地に、背の低い木がチョ
ボチョボと植えられています。
収容所の外も、しかしユダヤ人にとっては、安全が保証された自由の天地などで
はありませんでした。ポーランドの都市も交通機関もすべてナチスの支配下にあり
ました。農村のポーランド人の多くはユダヤ人に敵意を抱いていました。トレブリ
ンカを脱走した数百人は、農民に密告され、ドイツ軍、ゲシュタポ、ウクライナ人
部隊などに追われ、時にはポーランド人パルチザンとも戦いを余儀なくされました。
1年後、ソ連軍によってポーランドが「解放」された時点で生き残っていたのは、
40人ほどでした。戦後、戦争犯罪人裁判の証人席に立ったのが、彼らです。
一方、ゲットーが消滅したワルシャワでは、44年3月7日、アーリア人地区に
隠れていたリンゲルブルムがゲシュタポに捕まり、拷問のすえ、家族−−妻と12
歳になる息子のウーリと−−もろとも処刑されました。
ナチスがリンゲルブルムを拷問した目的は、彼が責任者だった、オネグ・シャバ
ットの記録文書がどこに隠されているか、それを訊き出すためでした。リンゲルブ
ルムは口を割らないまま、家族とともに殺されました。
オネグ・シャバット文書は、3回に分けてゲットー内に埋められました。1回目
は1942年8月3日、2回目は43年2月に、ともにノヴォリプキ街68番地に。
3回目はゲットー蜂起の直前にシフィェントイェルスカ街34番地に。
戦後、46年9月と50年12月の2回にわたって発掘されたのは、ノヴォリプ
キ街の分で、残りは未だに発見されていません。
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「トレブリンカ」おわり
冷蔵庫へ。
トップへ。