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輪廻、生まれ変わりについて思うこと。別に宗教とか学術的な話ではありません。 寡聞にして、西洋など他文化圏での事情は分からないのですが、東洋では生まれ変わりのお話はよくあります。ベルトルッチの駄作「リトルブッダ」でも描かれた、チベット仏教のダライ・ラマの転生認定などは有名ですよね。日本文学でも、唐と日本の間を行ったり来たりしながらの運命的な恋を、生まれ変わりと夢のお告げをプロットポイントにして描いた『浜松中納言物語』、そしてそれに触発されたという三島の絶筆『豊穣の海』四部作などが知られていると思います。 死してなお魂が残り、それが形を持って再び現れる。一人の死者がもう一人になる。死者と関わりのあった生者が、転生した彼/女と再会できる。確かに魅力的なテーマだし、物語には恰好の道具立てですよね。荒唐無稽でありながらも、虚構の構築美を追求できる素材です。
『豊穣の海』でも、その小説世界の完璧な構造や、にもかかわらず第四部「天人五衰」で4番めの生まれ変わりの主人公が転生を自己否定して物語の完結性に穴を穿ち、堅牢な構造を破綻させ(と見せつつ、実はそれで丸く収まってしまい)かねないようなオチがあったり、あれこれ語るネタには事欠きません。でも、個人的な感想を言わせてもらうなら、じっさい小説として面白いのは第一部「春の海」及び第二部「奔馬」までかなあ。三部以降は、かなりだれますよね。 |
それにしても、ひとつ不思議なのは、デカルトっぽく言えば「延長」を持たない「思惟」的存在であるはずの魂が、「延長」的世界=現実の物理法則を越えきらず、なお不可逆な時間軸という拘束の中にあること。じっさい、死を挟んで前世と来世で、空間を越え性差を越えて(『浜松』では「父」が唐で皇子に生まれ変わり、『豊穣』第三部「暁の寺」ではタイの王女に生まれ変わり)、転生するという、想像力の自由奔放な飛躍があるわりには、時間の流れだけは越えていない。それどころか、時間軸だけは、むしろ厳密に秩序づけられています。死んだその日その時刻に生まれ変わるとか、死後七日後とか、四十九日後とか。この7日間あるいは49日間は、魂が彼岸で漂泊している時間とされるようです(ということは、人間の場合は通常、胎内にいる9か月は魂がなく、胎児はそれを容れる器に過ぎないということになりますね)。 しかし、地理的空間や生物種や性差を越えて生まれ変わるのであれば、いっそ時間もあっさり越えてしまえばいいのに、と思うのは私だけでしょうか。もちろん時間の束縛までなくしてしまえば、物語の構造を支えるものが崩壊してしまうから、舞台構築のための便宜として時間の流れという絶対的な縛りは外せないのかもしれません。でも、どうせなら、過去に生まれ変わったり、同時代に生まれ変わる(=同じ魂が二つ以上の生命に同時に宿る)というのも、「あり」だと思うのです。 そんなことを考えて、数年前から温め続けて(放ったらかしにして)、もう腐りかけている映画のネタがあります。こんなプロットです。 |