西表炭坑にまつわる物語
- 幕末、開国を迫って浦賀沖に現れたアメリカ太平洋艦隊のペリー提督は、琉球王府に続いて、江戸幕府に対して武力を背景とした強引な交渉を行いました。1年後の再談判を約し、一旦江戸湾を去ったアメリカ太平洋艦隊は再び琉球に向かい、西表島の島陰に投錨しました。地質調査のために上陸した調査団は、西表島の西半分が良質な石炭の宝庫であることを知ったのです。
- やがて幕末の動乱を経て明治維新を迎えました。明治12年の琉球処分を経て、琉球に新しい時代の波が押し寄せることになりました。笹森儀助ら探検の時代が過ぎて、政府の意を受けた三井物産、大蔵組など財閥系企業が西表炭鉱の経営に乗り出しました。やがて日清戦争、日露戦争が勃発します。西表島で採掘された石炭は中国南部の福建省、廈門、香港へ輸出されました。富国強兵が国策であった時代、日本各地の炭鉱で過酷で危険な労働に多くの鉱夫が倒れました。西表炭鉱は、悲惨な歴史に埋もれそうになりながらも、辛うじて歴史をひもとこうとする研究者の努力と、当時の惨状を伝える語り部によって拾い上げられたのです。
- 全国各地から甘言にだまされて連れてこられた人々、朝鮮、台湾から強制連行されてきた人々は過酷で劣悪な労働条件、度重なる落盤事故、マラリアの蔓延、山師の暴力による支配に苦しめられました。脱走してジャングルの中で屍をさらした者も数知れなかったといいます。
- その西表島最大の炭鉱が、ここ白浜と白浜の沖に浮かぶ内離島にありました。今でも内離島には、廃墟となった坑道や採炭施設がジャングルの中に当時の名残をとどめています。
- かつて鉱夫達の怨嗟の声が満ちた界隈にも、1958年の廃鉱以来40年の時間が流れました。白浜集落の家々はみな正面に海を臨んで建っています。簡素な造りの港に、舟浮からの定期船が戻ってきました。県道は小中学校の正門前で終わりとなります。白浜小中学校と書かれた正門の向こうには広い校庭があって、手前から左奥にはL字型の校舎、右奥には青いかまぼこ屋根の体育館、校舎の前の花壇には色鮮やかな南国の花々が咲きこぼれています。
- 学校の塀に沿って海が巡っています。テトラポットのない、腰ぐらいの高さの簡単な堤防が、大波がうち寄せることが少ないことを想像させます。緑の山と青い海の間にはめ込んだような学校、日本にこれ以上美しいロケーションを持った学校が他にあるだろうかと思わせます。